存在のし易さし難さの傾向改善について(日本はもちろん、世界が良くなる余地についての考察を、教育の観点から)
2021-8-001
消費や投資の、ひいては、存在し易いものし難いものの傾向
(日本に限らず、需給成立に長けているいないという量的側面の先行が常態化してる)を変える必要があると思うので、
対象の評価や対象有り様への反応に際し、
負わせる負わされるをやむ得なさの帰結に持ってく(不当獲得的側面の縮小)有り様と言える、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない主体像(表層形によらない)への、
志向や支持が背景で働いてる人をいかに増やすかの問題と考えます。
ネックは、知的領域に関するプラットフォーム囲い込み(学問枠組みを保守する圧力)が、先の常態化へと誘導してる内容になってる点でしょうから、
これまでの教育について、
上で言う背景を持たない対欧米(取り込み)による近代パラダイムへの過剰特化のせいで、
そのパラダイム(分離が前提になってる事情もあって、条件の違いに反応しない類の振り回されなさで満足)の限界や弊害に盲目となる
(表層形断罪前提の修正しか解決を持たない地平から、例えば、競争という表層形を断罪して協調を持ち出すなどの発想から、外に出られなくなる)、
この構造(文系域の上滑り)をそのまま持ってると認めた上で、
先の志向や支持を、何かができるできない(有限性形態)の問題化に先立たせる方向へと修正し、
注力(意識作用込み)や枠組み(既存の問題意識込み)インストールがいらぬ特化
(限定化に際する通用領域喪失を、限定のやむ得なさによって補完する、通用行き渡らせる処理が利いてない事態)となるのを、
上の主体像(各場の固有性に即しているいないでもって、優先順位等の、体系について受容するしないを決める方針込み)の結果かどうかとは、
つまり、内実の確からしさとは、無関係に自他の有限性形態を肯定否定する事態となるのを、
防ぎにいく教育改革が必要でしょう。
特に、局面と着目無視の一致化教育
(何の差異が割り振りの基準として取り出されるかは場次第としつつ、各局面の性質から着目無視が外れないよう、そこから外れてる思考展開などの体系構築は損得によらず避けるよう、求める教育)は、
捨象対象選定(抽象化具体化の精度)や確定的扱い強弱(検討発動の機会)、次善の策運用(理想と現実のバランス)、全体枠拡張(各要素の再位置づけへの開放性)に、
ひいては、理解力(対象に関する抽象具体の関係構造の像構築)に関わるので、
近代性(同種の他との共通要素の捨象アプローチの埋没化、内在不問外在軽視な解決観)対策、
つまり、文系域での上滑り(表層次元を超えては通用を行き渡らせる事ができない地平)対策の本筋とすべきと思います。
また、既存(何を負うべきかについて上滑り)の責任観や救済観に関し、前提にしてる言説や空気への対策として、以下の像への上書きを教育界に依頼しましょう。
場の固有性が深掘り(表層的要素の捨象)されてない場合、他の場の割り振り原理を持ち込まれてる(固有性は埋没してる)も同然であり、
自由は、この事態(各場の固有性に対する尊重の事実上の不在)を修正する圧力
(ここに含まれるタイプの非難は場の固有性からの乖離だけが問題な為、表層形断罪とは別物)の結果に獲得されるもの
(各場の割り振り原理に対する無条件保障や、通用行き渡らせない段階での肯定では不十分)。
内在場も外在場も
(個人における外在場と国における内在場が重なる文脈もあるわけで、内面世界での処理と自国社会や国際社会での割り振りに、
加えて、場の性質把握のスタイル選択に、同じ構造や要求を見る枠組みへの拡張は、権利観における対近代に必須と考えます)、
その意味において自由である時、
仮に主体の具体形が外在場から罰を受けてるように見えたとしても、
話としては、場の固有性に相当する観点の下に扱いが整合されただけ(固有性への尊重の帰結)であり、
理系域での論理整合と根本的には同じ話であって、
その整合を(先の主体像に近い程、具体的扱いはともかく、有限性形態自体は肯定されるのに)拒むのは、上で言う修正圧力とバッティング。
注、
理想を犠牲にする程度を条件上の最小に抑えつつ成立達成を図る(一種のチキンレース)、
より厳密に言い換えると、何ら割り引かれてない状態のものを用意し理想扱いした上で、現実から代替不可能な要素を取り出し、それを加工条件とした時の割り引きに抑える、
例えば、存在性の演出的発現における演出者(加工条件)が、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない主体像に近い程、
つまり、加工条件自体がそのような割り引き構造をしてる時、存在性もそのような割り引き構造で発現する、というイメージなので、
表現観も、抽象化具体化の精度問題に落とし込んでしまうべきだろうと考えます。
十代前半に全能感を削がれた的な経験は珍しくないのだろうけれど、井の中の蛙状態の緩和は、その前にも後にもあるものだと捉えた上で、
それらを全体枠の拡張に伴う、各要素の再位置づけ現象としてまとめてしまう(それら自体を全体枠拡張してしまう)事で、
自己の再位置づけに関する大騒ぎなり抵抗なりを抑え、再位置づけ機会に開放的な状態に持ってく作業は、
より確からしいものが取って代わる運動性
(デカルトの主張よりもさらに遡った限界地点としての、通用領域の広狭と確からしさとの相関への依拠、これに同等なそれ)への阻害の除去にとして重要に思います。
実力に帰属しないものを得る事態を、やむ得なさに落とし込む倫理方針が持たれてないなら、
知性が帰属の修正(原理抽出など)の形を見せていても、帰属の操作への鈍感さを抱えてるわけで、
地平の通用領域の広狭(対象位置づけに関する実力)に厳格な観点の保持は、形骸知性化を抑える第一歩的なものでないかと想像します。