文系域は、客観性が維持されなくて良い時代の理系という想像に、相当する状態であり続けているのに、その修正を阻害する働きが学問界にすらある、という話
2021-10-003
存在も認識も、より確からしいものが取って代わる運動性が、ある着目無視(次元設定)の下で展開されたもの
(無限性と有限性との間の内外関係における、内外の性質統合)であり、
人は次元設定自在性という形式上の特徴を持ってるだけ
(できるできないの話である有限性形態に、引き受けざる得なさという確からしさを与え、対有限性のぬるさの反映により行動原理の確からしさが下がるのを抑える事さえ可能な、
その自在性の、かえって振り回されてる事態含む、持ち腐れと言える、次元設定の失敗やそこへの鈍感さの問題があるだけ)と考えます。
また、その運動性には、通用領域の広狭と確からしさとの相関が、構成的に含まれてるとも思ってます。
なので、欲求は、通用領域の広い方な気がするものを選ぶ、という反応がその中身、
欲求に質を求める人と求めない人(特に、質の向上に相当する処理を欲求の否定、欲求の十全発現の阻害と位置付ける人)がいるのは、
言い換えると、内面世界という場での割り振り原理が、場の代替可能な要素をできるだけ削ぎ落した固有性の十全反映でない、という意味での形骸性を、
欲求から取り除こうとする人としない人とがいるのは、
(文系の知的上層に後者が存在してるなら、帰属から形骸部分を取り除くだけの実力が獲得されてない、したがって、通用を行き渡らせたまま展開した帰結に辿り着けないレベルでも、
知的上層になれてしまう事実を意味するはず)
次元設定自体が上の運動性に乗ってないケースに対し、通用領域の狭さを覚える人と覚えない人とがいる事実の現れ、
そう言えると推測します。
とはいえ、近代化された教育を修めた人なら、理系(的局面)については、
同種の他との差異要素の捨象から成る次元の維持、特に主観に対してのそれを、確からしい判断と見なす際の根拠にするでしょうから、
上で言う現れは、文系(的局面)においては、同種の他との共通要素の捨象から成る次元の維持、特に主観に対してのそれを、
確からしい判断と見なす際の根拠にする人としない人とがいる、という話へと限定はされるでしょう。
(市場や民主制も、個々事情の、それらが後者的な次元維持の産物かどうかとは関係なしに、割り振り原理への反映量を、
つまり、需給実態と割り振り原理との近さを、これまでは根拠にしてきたようなものなので、
次元設定自体には形骸を見ないまま、形骸除去を採用根拠にしてる人、例えば先に見た、欲求の十全発現を阻害するとの理由から欲求の質向上に相当する処理を拒む人が、
それらシステムを批判していたなら、
洗練形に限っての批判であろうと、自身を棚に上げてる事態、
言わば、林檎は数えられないのに蜜柑はできるから数を数えるは十全にできてると勘違いしてる的状態の言動と言え、
一方で、引き受けてる内在事情外在事情に対する代替可能要素の削ぎ落し具合を論点としないまま、
個々事情なり欲求なりを肯定否定してる内容の哲学が権威を持ててしまう現状は、
確からしい根拠を聞いて回ったソクラテスに対し社会レベルで黙らせたも同然な当時と、当事者と言って良い哲学すら今なお大差ないという、
これまでの学問界、少なくとも、その文系域に不信を持つだけの、十分な証拠のように思われます。)
以上から、文系域は、客観性が維持されなくて良い時代の理系という想像に、相当する状態であり続けていて
(この点に関し、より確からしいものが取って代わる運動性を阻害させてる何かがある)、
この事態は、
前者捨象の領域侵犯と後者捨象の埋没を引き起こす類の偏り持つ捨象観(通用を行き渡らせる処理についての理解)の採用意味する、
近代パラダイム(表層形反転の二択な地平を強化してる、分離処理への過大評価)を保存し続けてきた
(いらぬ偏りへの修正働きかけに対する阻害反応すら見られるなら、形骸化した常識に固執する事例に同じであり、
近代な解決反応パターンを繰り返すだけで満足し、理解をより確からしいものが取って代わる運動性に乗せるのをやむ得ない理由もなく二の次としてる人達に、占拠されてると見なせるだろう)学問界はじめ、
例えば、自由や平等に、認識の対象となり得る全てに対し(取り上げる差異を各場の固有性に帰属させるべく)局面と着目無視の一致を維持しつつ接する、という内容を、
ひいては、それが何であれ(損得、快不快によらず)齎すもの齎されるものの過不足を縮小し、選ぶに値する、通用の行き渡った状態へと寄せる作用を持たせる事なく、
したがって、代替可能な要素をできるだけ削ぎ落した内在事情外在事情にしか応じない主体像(応じてない結果の意識的、無意識的問題意識)やその産物に近いほど信頼する
(余裕がある状況での消費や投資の優先対象にするなど)わけでもなく、
内在不問外在軽視な自由観や、対象の内実の確からしさに対する検討や修正を欠いた保障観を、外界に押し付けてる全ての人に、
また、精度最大化された(局面と捨象対象選定を一致させた)抽象化具体化の交互反復によって通用が行き渡った状態を保存させつつの展開を、
変化不変化の内実に求めてない(当然、内実としてる場合とのずれ部分への修正対象扱いもない)、
つまり、過去に見られた論理展開(自身の体験の位置づけももちろん射程内)なり、人類の将来像なり、枠組み(パラダイムや定義)の有り様なりを、
その展開かどうかをもって肯定否定してるとは見なせない全ての人に、
原因帰属がある、そう言えるように思います。
(前者の例は十代突入前から、後者の例も十代にもなれば、着目無視に関する教育次第で、変える事は全然可能と考えます。)
ご支援の程よろしくお願い致します。