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3369文字、場を荒らさないという問題意識の弊害(日本において常に問題となるこれ)をどう防ぐかについて

2024-11-007

日本の場合、手段のバラエティへの限定が場を荒らさないという問題意識のせいで、
フェアのみによる限定の場合と重なってない事態、目的を見失ってる事態に陥る可能性(例えば、常識がこうした事態の産物である可能性)が十分あり得る為、

場の本質に合わせてるなら場を荒らしてるという表層形も場を荒らしてないという表層形も肯定される、
および、場の性質の取り違え(価値は場が持たざるを得ない偏りの反映なので価値の取り違え込み)を最小化するには個別性を同種の他との共通要素捨象に可能なだけさらす必要がある
(既存教育は差異要素捨象しか育ててない)、これら理解を押さえてる人を増やしましょう。



代替不可能な内外事情にしか応じない主体像は内在場でも外在場でも場の本質に合わせにいってる形なので、次の理解を押さえてる人も増やしましょう。
代替不可能な内外事情にしか応じない実存であれば表層形(振る舞いの見た目なり、能力や情報の獲得具合なり)によらず肯定される。
その実存同士から成ってる人間関係や代替不可能な内外事情にしか応じない主体像だけから成ってる社会も表層形によらず肯定される。


その実存を生きてるなら当然、余裕があるという局面事情での振る舞いと余裕がないという局面事情での振る舞いは、
着目無視する差異と各場の個別性とが合致してる下での選抜という意味で、表層形が同じに見えようが見えまいが別物かつ妥当なので、

仮に低品質な財サービスを売ったり買ったりしていても受容に値するだけの理由があるのに、
低品質な財サービスを売っているいない、買っているいない、といった表層形だけをもって肯定否定する人は、

理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立ってる現実が点として紡がれてる歴史であるかどうか(肥大化してない現実に帰属がある割り引き、
例えば、存在するのと引き換えでない要素まで存在に帰属するのを防いでる実存に帰属がある割り引きのみを認めてるかどうか)という内実による対象評価が機能しておらず、

対人であれ対社会であれ対世界であれ、必ず過大要求過小要求が含まれてしまってる
(感謝や謝罪も、帰属修正行為の一種と解せるので、帰属修正余地への鈍感さ故に十全に機能してるとは言い難い)為、対象を不当に扱ってる(その言動は真に受けるに値しない)。


(例えば、優れてる劣ってる、助けがいるいらない、といった印象を持たせにいく試みには、
実際にはそうでないケースも、実際にそうだけれど見えにくいので見えやすくするだけのケースもあるわけだけれど、

肥大化してない現実としての実存を生きてない人の場合、印象操作以前の段階で既に存在への帰属操作の分だけ有り様が疑似化してる為、
優勢劣勢有り様を修正余地のない状態にまで持っていきたいなら、厳密には存在への帰属操作も問題になる。)



ところで、理想現実関係(プラトンアリストテレスを踏まえる事で主語述語関係も射程に入る)は、
限定を受ける前状態と限定作用から成る関係に、フィードバック作用を加えたサイクル(具体化抽象化の交互反復による同一性変化性の同時達成)であり、
フィードバックに際する取り込まれるか弾かれるかの選別が、知性的には仮説改善改悪問題、倫理的には善悪問題、美意識的には整合不整合問題に相当してると疑います。

この場合、取り込まれる条件は、限定作用についてのより確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害の最小化であり、
認識で言うと、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を何の差異に関して持ち出すか、

という観点設定に対してもこの相関を可能なだけ検討する、この相関への徹底依拠である為、
認識対象を置く場の個別性が代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてきた帰結ではないなど、ここが不徹底な知性倫理美意識の産物は取り込まれるに値しないと考えます。

(個人で言うと代替不可能な内外事情にしか応じない実存である為、存在性の演出的発現である芸術や競技的スポーツでは演出フィルターとしてこの実存が要請されてるし、
無限性と有限性の関係にまで遡った上で、無限者と有限者の関係へと捉え直した際の信仰の実質、有限者による関係性改善の実質としてこの実存、
内外境界線の発生を有限性、上で言う相関的には常に外を持たない状態に等しいより確からしいものが取って代わる運動性を無限性と解せば、無限性の受容阻害を最小化した有限性と言えるこれが要請されてると考えます。)


また、人間種としての共通性(認識システムや性別システムといった、置かれてる場に自身を通用させ続けるという存在課題を種レベルでこなした結果の産物込み)も、
パラダイムや文化(存在課題含む対問題の外在的スタイル)としての共通性も、
その実存(当然、個別性が根拠になるならないという局面事情の区別は機能してる)を限定作用とするサイクルになってる時にやっと肯定されるし、

皆と同じ(場を荒らしてない)かどうかという標準との遠近による評価は、受容に値する状態へと持っていく働き(行動原理の改善)として機能してる知性倫理美意識に重なる事もあるにせよ、その働き自体ではない、
これら理解は共通性を根拠とする介入の内面化を防ぐ上で必要であると考えます。


ちなみに、既存の教育は同種の他との共通要素捨象、個別性の取り違えを最小化するのに必要なこの能力を育てない為、
個別性が根拠になる局面で根拠に含まれてる飛躍に付き合わない態度の実現に何ら貢献してません。

したがって、文系の学歴は、文系事象を受容に値する状態にまで持っていく働きとしての知性倫理美意識の点では、
言い換えると、文系者という単位においては誇大広告(実際はそうでないのに優れてるとの印象を持たせる働きを担ってる)です。

社会がこの誇大性を割り振り原理に取り込んでる限り、つまりは、内外事情に対し代替可能か代替不可能かを選り分けるレベルで取り違えを最小にしてる実存の確保を阻害する教育の体現が、
社会有り様に影響力のあるポジションへの付きやすさを意味する限り、その社会の優勢劣勢有り様を修正余地のない状態に持っていく試みは阻害を受け続けます。

もちろん、社会の優勢劣勢有り様の修正に身を投じておきながら既存の文系教育の有り様を保障してる
(例えば、資本主義的なものが持つ過剰性を非難しつつ、能力や情報や可能性の獲得具合を代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合させてないとの意味で、
根拠に飛躍が含まれてる獲得喪失を紡いできた生やその産物に自負があるなど)なら、
マッチポンプですし、過剰性Aを過剰性Bに差し替えるだけの着せ替えごっこを知性倫理美意識の現れと誤認してる矮小化です。

こうした中途半端(先の不徹底が言えるのに根拠を遡れてるつもり)な知性倫理美意識で満足する生を脱し、
満足してくれる環境(特に、場の表層に合わせるか場に合わさないかの表層形反転な解決感覚のせいで、場の本質の解放や保障を埋没させてる秩序観や権力観、
当然、他種や無生物含めた場に置かれてるものの有り様が場の本質のみとの整合の結果になる事もないそれらがまかり通る環境)とも精神的に決別しましょう。


(この解決感覚については、肥大化した需給事情までそのまま根拠にするタイプの実態重視と、
需要事情に合わさない結果の不平不満を肥大化してない需要事情の反映なものまで封殺する実態軽視の二択は対経済に限らず健在ですし、

自分に帰属がある問題解決スタイルである自我を、改善フィードバックの機会からも遠ざける過保護と、
認識場の個別性を介さない認識の追求の形で放棄させ、自分に帰属してるべきものがしてない不自由状態、および、数を数えられないのに林檎を数える的原理不在状態の下での存在課題への対峙を強いる虐待の二択すら、

代替不可能な内外事情にしか応じない実存でありさえすれば改善フィードバックは上限化されてる上、
局面事情と着目無視設定との合致の意味でのフェアを越えてまで自分を助けない方針、
ひいては、解決されてない状態に対する、解決状態への過剰な志向からの解放による、

耐性の獲得やフィードバック精度をむしろ下げる過剰意味付けの捨象が期待でき、
主体放棄系アプローチに頼らずに済む為に先の不徹底の産物に思えますが、あるように見えます。)

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欧米文系の権威性からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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