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倫理と知性はどう刷新されるべきかについて、形骸な解決や齟齬込みの問題意識を防いでくれるだろう、いらぬ特化の忌避の観点から(4600字の内、1500字が補足)

2020-8-005

内と外の境界を過剰に分断したり過剰に無化する自他救済
(泣き寝入り強要が総体としては減らない)を退けるべく、
双方向共働きかけこすフェアフィルターを境界に置いた形で内と外を繋ぐイメージの共有が必要と思います。
さらに、知性観も同様の構造でもって捉え直し、プラトンとカントが示したある種の分断の解決としましょう。

ここで言うフェアとは、場の本質に即した割り振りへの支持、
あるいは、場の本質に即してる状態感の確保を割り振りに求めた結果、というイメージで、

その場に置かれ得る全てが、
場(確からしさの差として反映させる、取り上げる差異についての規定が及ぶ領域)の、
本質(代替不可能な固有性)の下の平等や主観管理を保障しつつ、扱われてる時、
内と外、あるいは、抽象と具体の関係構造が確からしい形で立ち上がってる感(自由や理解)は形骸でない、

この意味で倫理や知性の要、従って、次における本筋であると考えます。
泣き寝入り強要のない合意点の不在(形骸な秩序)への対策(次善の策に対する過剰依存への対策込み)や、
対主観(やその不可避性)、対冗長性(収束逸失による保有原理の過多および井の中の蛙的価値付け齟齬)。

以上を認めるなら、我々が配慮すべきは、倫理や知性が関わる全ての局面での、
何ら加工されてない状態、場の本質のみによる加工、これらから成る状態の、
つまり、いらぬ特化(いらぬ飛躍)のない状態の確保であり、

仮説(Aさんはこういう人といったレベルの素朴な原理把握含む)と実証の行き来のような確からしさ向上、
言葉の意味合いやニュアンスの変遷(多様性の増減込み)のような確からしさ確保(場との齟齬解消)、
そうした日常を構成する歴史性(抽象と具体の行き来、抽象化と具体化の繰り返し)における内実を、
その状態に持ってく、より良い枠組み(秩序や解決のあるべき像含む)の模索でしょう。



そもそも、いらぬ特化(代替不可能な内在外在に紐付けられてない部分まで取り込む)を避けるセンスが、
機能してないと、特に理由なく右しか見てない的事態
(局面事情の要請に合わせた領域限定の場合は、表面上通用領域がより限定される状態になっても、
要請が場への通用化の根拠となる事で通用量は保存される為、負うに値)が生じてると言えるので、

井の中の蛙的な価値評価の常態化、ひいては、形骸なカタルシスに引きずられ、
より確からしい(通用領域の広い)方向へ進む歩みを止めてしまう、少なくとも可能上限を逸してしまいます。
綺麗な理念に酔って権威で押し切る様相を呈し、付け込まれる隙持つ代物を断罪根拠にしてる倫理事例は、
その典型で、

特定の表層形をしてれば、形骸でも肯定、実質有りでも否定、
こうしたマニュアル仕事化から脱却するのに必要になってくるのが、
いらぬ特化の忌避(実質の獲得と表層形の差異、前者優先が抽象で後者優先は一具体形との理解込み)であり、
また、概念の内容規定への不断の刷新(特に哲学)である(両者は構造的に同じ)と考えます。

Aさんはこういう人(行動原理なり存在性の演出フィルター化の引き受け方なり)といった仮説であれば、
その都度刷新するだろうけれど、それでも、抽象化具体化の精度(刷新の精度)が高いとは限らないのに、

そもそも刷新が起きにくい領域を、代替不可能な内在外在に紐付けられた注力傾向とは無関係に持ってるなら、
対象を誤解したまま扱う事態が大した理由なく発生してる形
(できるだけの事はしたが駄目だったの形になってない、つまり、有限性がいらぬ飛躍状態)に他ならず、

仮説(原理)の通用が行き渡ってない事を意味する要素やその存在可能性に大した理由なく閉じてるとか、
その要素取込んだ全体を改めて捨象するのでなく、現状の低通用をもって原理放棄に表層反転してしまうとか、
改めて捨象しようにも捨象対象選定がパラダイムにより偏向受けてて事実上できないとか、
原理の収束逸失を齎すそうした要因を潰しておけば起きない現象と解しましょう。

もちろん、綺麗な概念でなくとも話は同じで、付け込まれる隙を潰してくれるだけの原理、
例えば、歪んだ憎しみ歪んでない憎しみを選り分ける原理の付随を欠くから、
(自己に対してもフェアを越えては助けない方針を採用する事により、不幸感の肥大は抑えられるはず)
ハラスメント概念の類も悪用可能状態であり続けてるのだろうし、

せっかく特定の泣き寝入り強要にメスを入れても、表層形(立ち位置)を反転させたそれには無頓着なのでは、
総体としては大して減ってないのに解決してるつもり(着せ替えが解決)となりかねません。

小学生が理科の実験で条件を統制するのも、大会運営が百メートル走で正当な順位付けを試みるのも、
処理構造自体は同じなのに、条件統制の意義を理解できる一方で正当な順位付けを認めない参加者を、
大会運営が接待場でもなしに許容してる的図式は、

分捕り合戦(負の連鎖もある)への事実上の誘導であり、
解決働きかけが分捕り合戦となるのを防ぐ(総体として減らす)だけの原理も、その獲得への接近を阻害する、
次善の策への過剰依存(局面事情に即した処置とは言えない状態)を修正する原理も、
端的にはフェアと言える為、フェア志向を欠いてるなら解決は形骸で、問題意識は齟齬込みと見るべきです。



別の角度から言うと、場の本質に当たる、問われるべき差異
(確からしさの差として反映させるべき差異)だけが取り出されるように管理されてなければ、
競争の結果であれ協調の形態であれ、引き受けるに、負わされるに値する帰結(通用が行き渡ってる)とは、
見なせない(これを根拠とする要求以外に対しても管理者ポジションが応じてしまうのは自己阻害)、

これが内面の産物(選抜された意見なり感覚なり)だろうと、社会の産物だろうと言えるというだけです。
実際、通用が行き渡ってないものを行き渡ってるもののように扱う、逆も然り、
この内容を意味できるまで、不当な扱いというものを(自己絡み限定からスタートして)抽象化してれば、

対象から現状可能なだけ代替可能な要素を削ぎ落とし切ったとは、
つまり、場なり自分なり何なりの、
それがそれである限り仕方がない、引き受けざるを得ない要素だけから成ってる状態に可能なだけ寄せたとは、
言えない特性を、そう言ってるも同然な用い方などしないはずで、

その水準でもって倫理関連(その種の解決認定や原理取り扱い)を捉えてないなら、
近代パラダイムが理系的局面に限って防いでくれてるとはいえ、根拠や捨象が十分不十分の形で、
また、手持ちの仮説や原理の収束逸失の形で、知性にも同様の疑いが持たれ得るように思われます。

逆に言うと、先の同じ処理構造の前者後者の間の断絶に相当するような部分、
負の連鎖の発生原因の縮減を損なってもいるそこへの対処として、
倫理方面からは、泣き寝入り強要への概念の美醜によらない中途半端な敏感さ、形骸なカタルシスを排すべく、
いらぬ特化を避ける心性(応じる内在外在への代替不可能化志向)を、
倫理関連の言動の基底に置いてもらう必要が、

知性方面からは、捨象対象の選定を偏向させてる近代パラダイム(を反映した既存教育)を乗り越えるべく、
逃れられない主観性に対してをはじめ、確からしさを最大限確保する(いらぬ飛躍を取り除く)方法として、

(通用領域の広狭と確からしさとの相関、内外境界の与件性、これらにのみ立脚するだけの事としつつ、
そうする事により例えば、不確定も局面事情次第では確定的に扱うのが確からしいケースもあるとしつつ、)

同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象が局面に合わせて選択される、この意味での、
場の本質に即した割り振り(特に、局面の固有性把握での後者捨象選択)を支持してもらう必要が、
言えるのではないかと疑います。



以下補足。

不当な扱いへの抽象化について、
表層反転(質不問)な解決センスによる内外分断解消との違いを明確にすべく、

不当扱いの受け手を自己絡み限定からスタートして他人はもちろん概念等の、場に置かれ得る全てへと拡張し、
抽象と具体の関係構造をより確からしいものにする事自体が対不当扱い、裏返しがそうなるまで持ってく作業、
何ら加工されてない状態、場の本質のみによる加工、これらの最大限追究からのずれ
(場に即した反応を受けるという加工の、前段階である咎め対象そのもの)、

こう内容と結果を規定(裏返しを理解や自由の実質に据える、知性観や倫理観の刷新も同時進行)した上で、

質不問な局面かどうかと無関係に、歪んでいるいないの選り分け原理を付随させないまま、
愛(内外分断の解消含む)を、愛の名の下の振る舞いを、推奨する行為における、
歪んだ愛による被害の、愛概念への責任擦り付け構図(形骸な尊重)と、
理論が悪用された結果の不幸であって理論自体の責任ではないとしつつ、
付け込まれる隙を潰しておく類の修正努力も特段見られないケースとを重ね、
かつ拡張不足の例扱いする必要があるように思えてきました。

また、そこら辺を膨らませた話(咎めるべき何かの発生構造そのものへの視線)も結局は、
次の二つの理解(対主観と同じ構造)に落ち着くように思われます。

無限性が自身に限定を強いる有限性(無限性がフィードバック込みで要請してると想像)に対して、
有限性(具体化条件)への最大限の代替不可能化(代替可能要素の削ぎ落とし)という形で、
自身(確からしいものの方が取って代わる運動性)を統合させてる
(自身足るべく先の要請があると価値対等的に解せば、話として整合的なはず)なら善は損なわれてない。
(理想を割り引く程度を条件上の最小に抑えつつ現実を成り立たせるチキンレースのイメージ)
その代替不可能化の阻害は、最終的に捨象対象選定と場との間の齟齬に帰される。

実際、能力の有限性から、注力に偏りが出る事自体は仕方ないとして、
しかし、いらぬ特化を避けた上での注力差異、ひいては、領域ごとの獲得情報差異ではないのに生じてる、
つまり、大した根拠がないのに生じてる認知範囲の狭さの責任を、丸々有限性に負わせるのは、
擦り付け(有限性への非尊重であり、内外境界の悪用)の側面が含まれてると言えるはずです。

一方で、歳が一桁でも半ばにもなれば一般に、主体の認知範囲の広狭
(席を外してた間の出来事の知見の欠落など)と行動(の適切さ)の連関は理解可能なようですし、
そもそも、その人の持つ意見や感覚は、より通用領域の広いものをその人なりに選んだ結果でしょう。
つまり、(資質や環境によって)注力の偏りの形が定まる前段階(加工の前段階)のものとして、
井の中の蛙的状況を緩和させようとする志向自体は、持ち合わせてると見るべきかと思います。

そして、限定形の根拠となる資質や環境に対する、さらに確からしい根拠とする作業(代替不可能化)も、
仮説(原理)の通用が行き渡ってない事意味する要素に閉じない(取込んだ全体を改めて捨象する)有り様も、
捨象対象選定と場との間に齟齬があり得る、
その意味で捨象が機能してるとは限らないという、質の問題を抱えてると見れば、

何ら加工されてない状態、場の本質のみによる加工、これらの最大限追究からのずれとしての、
咎めるべき理解不足(不当扱いや有限について含む)も、
その人の捨象(と場との齟齬の阻止配慮)の実態の問題に遡る(対不当とスパイラル)わけです。
もちろん、その咎め対象への適切な反応として教育があるようには現状見えません。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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