2919文字、現実(真善美との距離)を過剰否定してる哲学にも、過剰肯定してる哲学にも取り込まれないでいる為に
2023-5-002
何の差異を取り上げるか無視するかは場の性質が決めてる点、場Aの性質がA以外の性質に上書きされてしまうという問題
(特に、個別性が根拠になる局面での個別性捨象や個別性事実上無検討という中身のなさと、
近代始点の局面では分離を果たす事の重要性から仕方ないそれが、今なお権威を振りかざすという次善の策の据え置き、この二重性から成る近代性問題)がある点、
これらを踏まえ、社会における価値体系にせよ内面世界における価値体系にせよ、
場の疑似でない個別性のみが反映されてる有り様からの乖離部分を否定するだけ、という態度を採用し、
帰属操作部分の修正(内外性質が代替不可能化されてる現象を帰属修正余地がない、
ひいては、受容に値すると見なして、そこに向かう)という側面と無関係な肯定否定は捨象してしまいましょう。
(民主制や市場の用い方であれ、対文系での理解力や既存教育での獲得観であれ、
文系において未だに、Aという内容がBという形態を持つ際に、Aが疑似でない個別性の反映かどうかと関係なく、AとBの結び付き精度に固執する有り様が見られる件の責任は、
方法的懐疑や現象学を表層拭うだけの実態主義、つまり、個別性事実上無検討として糾弾してこなかった哲学者が、対パラダイムにおける立ち位置的に最も重いと解しましょう。)
人類が尊重対象を取り違えてるせいで疑似化してる問題(規模によらない)や解決から、
世界を解放する為に押さえるべきは、我々が尊重すべきは各場の個別性であり
(したがって、それが場全体に行き渡るように整合された結果なら、共生の中身や没交渉への近さによらず、場の上に立ち上がってる秩序も肯定対象であり)、
また、大小様々な社会はもちろん、内面や局面の時点で場の性質は無数に有って変化しさえする中、
場の疑似な個別性を尊重してしまうと、事実上他の場の越境侵略を許してる形である為に形骸な尊重となってしまう為、
場の個別性の疑似化除去が論点であって、同種の他との共通要素捨象に十分さらされているいないの観点が上の解放に際して要請されてる、という点と思います。
例えば、局面と無関係な着目無視設定で対差別を済ませるのは、場の尊重を原理として持たない事実を意味する上、
実際、内面と局面は抽象物と具体化条件の関係なので、内面の個別性を仮説と見なした時の仮説改善の上限化に必要な、具体化精度の高い情報得る機会を奪ってるわけで、
局面と着目無視とを一致させてる下での振る舞いは、受容に値するものなので拒否する側に責任があり、論点は局面の疑似でない個別性の把握にあるとする平等観(他者への適正な振る舞いに関する理解)、
および、局面と着目無視とが不一致なまま為されてる対象位置づけ(対自己含む)に取り合う価値はないとする自由観が、
獲得されてれば起きない話に、我々は世界規模で振り回されてるのだと認めましょう。
その平等観自由観(フェアを越えて自他を助けない救済観込み)を早く獲得できればできるほど、
個別性が根拠になる局面で先の観点を機能させる能力(ひいては、同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化の交互反復に、文系仮説を落とし込む仮説改善能力)を評価しない、
既存教育が持つ価値体系の侵食受ける程度を、冒頭の態度(妄信と反動反発の同時否定)によって抑えられるので、
文系事象の有り様(さらには、それを個々具体とする全体像)について、同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化の十分不十分の観点から評価する能力を、育てる余地も出てきます。
育てられれば、その観点を持たずに済ます問題解決と言える先に見た対文系での理解観に陥るのを防げるだけでなく、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存と自身の獲得喪失(自身の有限性形態)とを整合させる事(いらぬ特化に鈍感な獲得観との決別)もできるようになる為、
文系的な疑似問題疑似解決に、つまりは、根拠に値しない個別性としての都合の押し付け合いに、たとえ権威が付されてようとも参加せずに済みます。
例えば、真善美との距離自体を修正対象にしてる類(現実に対する過剰否定系)の哲学に接しても、
あるいは、理想を割り引く程度を最小に抑えるような現実に相当する上の実存を生きてるのでなければ、理想ポジションに在るものへのいらぬ限定を、避けてるつもりでいようといまいと必ず含んでしまうわけで、
その実存を志向してないのに満足してる類(現実に対する過剰肯定系)の哲学に接しても、
取り込まれずに済む(理想ポジションに在るものへの接近上限ポイントを紡ぐ歴史を、
また、持つ者も持たない者もそのポイントで繋がる平等世界と整合的でもあり、
課せられてる内外条件の良し悪しによらず過去未来含めたあらゆる主体に対して、
その上限ポイントからの乖離は咎めるがそれ以上は咎めない点で平等な態度を、生きれる)はずですし、
それらに含まれてる、有限性の代替不可能化とは関係ない部分が、帰属修正を先立たせてない安易さの現れ
(受容に値する状態へと持ってく前の都合によって帰属修正が、知性や倫理や美意識が矮小化してる感)として感じられるはずです。
例えば、国際的取り決めからの要請だろうと、子ども集団への介入要する事態に際してだろうと、
奪い合いの強弱から成る秩序(対自然込み)を終わらせる方策として、競争から協調へといった類の枠組みなり、何らかの権利持ち出して強弱の振り幅を縮減する方針なりが本筋のごとく扱われていても、
そのまま付き合う事はない(終わらせたいなら割合高めにいくべき、都合の反映が帰属操作を意味しない状態へと都合を持っていってる主体有り様からの、
乖離部分以外込みで否定する過剰否定や乖離部分込みで肯定する過剰肯定を許してる点をもって、次善の策としてしか扱わない)はずです。
(先の理解観、つまり、内実の確からしさ差異を気にしない理解力の持ち主量産してきた既存教育は、
自己尊重が疑似化自己の尊重であるなどの、内実の確からしさは異なるが表層形は同じである事態を自覚的にしろ無自覚的にしろ利用した偽装である、
言わば、ドーピングによる金メダル的な不当獲得が可能な環境の構築に加担してる形と言える以上、奪い合い世界の原因であって糾弾対象です。)
例えば、余裕があるのに次善の策を用い続ける過保護パターンなど、余裕のない局面では成立自体を、余裕がある局面では成立の内実確からしさを重視する量質推移構造の不在事態
(特に、余裕あるのに代替不可能な内外事情にしか応じない主体像へと、より厳密には、
置かれてる場に通用させるという存在課題を介した同一性と変化の間の関係性における抽象化具体化の精度最大化へと、存在成立の内実が移行してない事態)が確認された時点で、
理想を過剰に割り引く現実を生きてる(林檎を数えられないなら数も数えられないの意味で、
いらぬ割り引きを抑える原理を体現してない)以上、対真善美や対無限者も上限化できないわけで、
何を掲げてようが真善美を背景にできてるとは見なさないはずです(対社会や対人に際して余裕あるのに過剰否定をしてる、という方向で冒頭の否定に失敗してるパターンの確認でも同様)。