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1825文字、対政治の態度を選ぶ前に、我々は何を押さえるべきか

2023-6-001

例えば、老いや死は誰にでも起きる事なので、主な勝因が相手の老いやその末の死にあるにもかかわらず、
勝者が手柄のすべてを自身に帰してる場合に、その人の功罪設定を周りが受容に値するものとして扱うかどうかは、

余裕がない時には成立自体を重視し、余裕がある時には成立の内実確からしさを重視するという、量と質の間を局面に即して推移する構造の内面化に関して、
その人が達成してるのか、それとも年齢分の時間がありながら達成されてないのかを基準にすべきと思います。


つまり、内実に確からしさを求めるだけの余裕があるにもかかわらず、勝ちなどの表層形だけを問題にしてる生は、
ドーピングによる金メダル的な茶番の受容を外界に強いてるも同然であって、
そうした形骸な功罪感覚を基に覚えた不満や満足を踏まえて対人なり対社会なり対世界なりを展開してる人の振り撒く影響は、負わされるに値しないものとして扱って良いだろうという事です。



以上を認めると、社会の変化の大小について大きい方を望んでようが、小さい方を望んでようが、自身の採用してる対社会を正当化したいなら、
局面含む場に即した割り振り(即してるなら曖昧明晰スペクトラムのどこでも良い)へと寄せるという意味での帰属修正を、
感覚なり感情なり、内面世界における選抜に先立たせてる必要があるわけです。

さらに、政治(特に、理想を抽象状態、現実を具体化条件とする対自国社会や対国際社会)を、
抽象化具体化の交互反復によって同一性と変化性の達成が図られてるものとしての歴史に拡張する事で、

歴史を、場に置かれたもののポジションや具体的有り様が場の性質と整合させられた結果、との意味での選抜結果の連なったものと見なし、
その連なりの中の具体化抽象化の精度が最大化されてる部分(理想を犠牲にする程度が条件上の最小となる点が紡がれてる部分)を、

誰かにとっての望ましさとは関係なく、受容に値する歴史とする歴史観(ヘーゲル弁証法系への、
具体化精度の低いものを弾く統合機構でない点、未来の有り様重視な点に対する否定的態度込み)が必要であると言えるようになると考えます。



ここで、既存の対テキスト(過去時空の特性との付き合い方込み)は、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存ではない人が自身(例えば、社会の中で担ってる役回り)に関して環境の責任を主張すると、自身の対外在での過剰反応分の責任擦り付けが主張に含まれてしまう、

この問題点(その実存である事だけを責任として問う側面)を対象位置づけに含めてない
(表層の汚れを拭うだけの実態主義に、ひいては、表層を洗練させるだけの対歴史に、余裕があってなお留まる知性が許されてきた)以上、上の歴史観と整合してるとは言えない為、


対政治(特に、場の疑似でない個別性に即してない秩序をそのまま受容する事はせず、その否定の具体化を自身の疑似でない個別性に即させる形になる、
表面上否定に見えない事も当然ある上の実存を、国等にも拡張した主体像ではなくても、
つまりは、帰属修正を獲得喪失に先立たせてる主体ではなくても権利を行使できる状況)はもちろん、

対人(特に、フェアを越えて自他を助けるという、外在場を尊重しない態度故に場の尊重についての原理不在を、ひいては、自他の内面世界の尊重の形骸化を意味する上に、
受容に値する人生を、先の実存として紡がれてる部分に限定するつもりがないに等しい発想)や、

対世界(特に、受容に値しない有限性を、有限の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性から成る為に帰属修正余地を持たないと言える先の実存のような、受容に値する有限性へと、
持っていってない事で生じてる現象、例えば、いらぬ不幸まで世界なり神なりの責任に、本人がそれらを尊重してるつもりでいるかいないかによらず帰してる事態)の、


改善を既存の文系教育はむしろ阻害してきた(この有害部分込みで自身を教育に合わせ込んだ人が、
何かをし過ぎる点をもって対象を非難するのは、いらぬ特化に関して自身を棚に上げてる形になる)と疑えるはずです。

なので、対政治の態度を選ぶ前に、既存の文系教育が持つ応じる必要のない部分(個別性が根拠になる局面で、
対象の個別性について同種の他との共通要素捨象に十分さらされているかいないか検討する能力を、
機能不全に追いやる働き持つものすべて)を押さえ、そこには応じてこなかった場合の自己像に、自身をできるだけ近づけましょう。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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