いらぬ特化を避ける生スタイルの獲得が、学びに先立ってない類の教育論を、選ぶに値する状態から人生を遠ざける働き持つものと見なし、過去にしましょう
2021-12-006
何かを否定する反応(自覚ないケース含む)に対して、不当な部分込みで否定をしない、妥当な部分込みで肯定をしない、こうした反応で応じてしまう(自分が自分に対して為す評価込み)のは、
通用が行き渡ってる感をもって肯定するという反応が、通用の行き渡ってる状態を取り違えてる為に機能してないせいと考えます。
有限性(限定作用)を与件と認めた上で、その状態に持ってくものとして(理想現実関係を踏まえた上で、それを安易な関係にさせない処理として)、
限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出しの、言い換えると、抽象化と具体化条件割り出しの最大限化を位置付けてない、
さらには、文系的局面でその最大限化を可能にするものとして、同種の他との共通要素の捨象次元の維持を位置付けてない、
要するに、内実の確からしさを肯定の条件(信頼の条件)にしてない結果が、
例えば、小学期の時点で問題になる、家庭由来(物や習慣や時間を持つ持たないなど)のものも含めた、対象に見られる表層形に対する過大な肯定否定であり、
(通念的解釈な自由や平等の理念化で強化された)内在不問外在軽視な解決像による、先の肯定否定反応の擁護と相まって
(Aがいらぬ飛躍を持つから自分に都合の良いいらぬ飛躍に替えるという話と、Aはいらぬ飛躍を持たないけど自分に都合の良いいらぬ飛躍持つものに替えるという話が合わさったものに、
何かを尊重してる設定を付与して正当化した枠組みが、日本に限らず未だに幅を利かせてる事もあって)、
抽象化具体化の精度最大化の責任を負わせつつ、内実の確からしさ、特に、代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像(と整合的な自由や平等や特化観)である事をもってその表層形を肯定する、
この方向性が埋没させられてる事態
(内実の確からしさ確保と整合的な尊重が実質持ち扱いされず、表層形を根拠に肯定否定する都合押し付けの裏返しな尊重が形骸とは見なされない世界)であると考えるわけです。
なので、下の件も含め、文系的局面での抽象化具体化の精度を最大化させる能力を育成しない、それどころか、
同種の他との差異要素を捨象するアプローチ(理系的捨象)の領域侵犯と同種の他との共通要素を捨象するアプローチ(文系的捨象)の埋没、これを特徴とする近代性枠組みへと子どもを落とし込む、
既存の教育の問題点(限定通用性)を保存してきた人達に、先の肯定否定反応の原因を見ざるを得ません。
自然言語における主語述語関係を、
取り上げるに値するものを世界から切り出してきて、それからさらに切り出す二重の切り出し作業が、
自我(内在的な問題解決スタイルであり、単なる分離で済ませず、表層的要素を捨象する姿勢でもって、次元設定自在性という人間性に質的にも振り回されない方向をも、そこに求める時代へと替えるべき)と、
文化(外在的な問題解決スタイルであり、学問場や芸術場もその産物)という、両偏りから成る場の上で展開されたものと見れば、
抽象化具体化の精度が問題になる場面(精度最大化をもって通用性の取りこぼしを阻止すべき場面)が単純に解して、六つもあるのに、
同種の他との共通要素の捨象次元の維持を要請しない(文系的捨象を求めない)わけなので、
既存教育は、主語述語関係の形骸化を野放しにしてる
(国語教育すら、形骸物を形骸だと理解できない人の再生産サイクルが回ってるだけ)と言えますし、
(抽象化具体化の精度最大化は理想現実関係の排安易化でもある為、
その六つの局面で抽象化具体化の精度最大化が果たされていてやっと、自然言語は過保護を具現する道具化から解放されてると言えるとすると、
その六つの精度最大化を個々具体の中に含む抽象次元が獲得されてない段階での自然言語使用に対しては、
厳密には、通用してない感や実力不足感を覚えるべきなのだろうと想像されます)
対常識に関しても、特定時空に合わせた加工と言える要素を可能なだけ剥いでから、引き受けざる得ない特定時空性を付し直した状態と、実際の持ち出され方とのズレ把握
(ズレ部分に対する否定反応への、個々主体の資質や環境の反映させ方含め、
場の疑似化されてない固有性に即した具体化の産物かどうかで評価する能力)を育成しない
(妄信と反動反発の二択を、ひいては、内実の確からしさ確保に伴う修正作用から逃げていられる過保護な生、安易な理想現実関係の産物を外界に負わせ続ける生を強いてる形)という意味で、
情報や枠組みをただ持たせるだけの、表層的働きかけで済ませてきた(いらぬ特化を避ける生スタイルの獲得が、学びに先立ってない類の教育論)と言える以上、
自由や平等といった概念の通念的内容(特に、内在不問外在軽視な解決観の反映)に疑問が持たれない、
つまり、定義系(原理抽出系)の主語述語関係における形骸化(通用性の取りこぼし)が修正されず、
内在不問外在軽視な状態で話が済まされてしまう世界
(内在場や外在場の上に立ち上がってるものが場の疑似化された固有性に即した代物、具体化精度の低い代物であっても修正されない、いらぬ飛躍が通る、という意味で帰属操作な世界)の原因も先に同じ。
ちなみに、プラトンの提示以来、理想現実関係も主語述語関係も、文系では抽象化具体化の精度問題になってない
(理系ではガリレオが事実上させたにもかかわらず)点、
例えば、方法的懐疑も永遠回帰も、基本的知識レベルで知られてるのに、
主張の依拠してる、通用領域の広狭と確からしさとの相関が、個々具体に対する抽象次元扱いされてない
(抽象次元は個々具体に対し通用を行き渡らせた結果であるにもかかわらず)、
当然、個々具体から抽象次元に遡る事で個々具体が捉え直されるという、井の中の蛙状態の緩和に伴う作用もない
(それらの提唱者に見られる、分離や反転で、もっと言うなら、内在不問外在軽視の成就で満足する解決センスと依拠との間の整合不足の論点化もない)点、
その作用の特殊形と言えるヘーゲル弁証法も、個々具体に関して具体化精度を問うてない(理系で言うところの、実験の精度無視に相当)など、
抽象化具体化の交互反復から歴史展開は成ってるとした上で、抽象化具体化の精度最大化による確からしさの向上や確保の形骸化阻止
(論理展開でも求められてると解すべきだろう、通用性の取りこぼし阻止による選ばれるに値する状態の保存)だけを、
責任として過去に対しては問い、未来に対しては負う、という歴史観が個人規模であれ人類規模であれ見られない点、
これらを抽象化具体化の精度追求枠組みは解決する(それらに通用してる)わけなので、先の類の教育論を過去にする取り組み
(可能性の獲得すら、先の主体像から乖離して得たものについては、不当獲得扱いする、
及び、通用性の取りこぼしに対処できない、当然、原理はじめ通用の行き渡ってるものを選抜できないだろう実力不足の証拠扱いする、意識改革の取り組み)は、
選ぶに値する状態から個々人の人生が乖離させられるのを防ぐに留まらず、プラトン以来の哲学
(上を解決しない限り、どう展開されようと過保護追認の域を出ないそれ)をやり直すレベルの世界再構築まで射程に入ってると捉えましょう。