4125文字、生を軽視した哲学、および、通念的論理像の妄信は、どういう観点から糾弾されるべきかについて
2024-2-001
既存の教育は、AにもBにも言えるものをAに固有の性質とはしない能力を(個々具体の固有性把握の精度は、剥ぐべき具体化条件の取り違え具合として抽象化処理に響くのに)育てない
(着目無視有り様という次元設定を形式として見れば、個別性が根拠になる局面と形式との間に生じてる、
個別性捨象か個別性への過剰帰属に対する不問かの二択からくる齟齬と言える近代性がそのまま保存されてる)為、
教育を通しては、負わざるを得ない内外事情しか持たない実存有り様は(教育における能力や情報や可能性等の獲得の促し方と、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針に獲得喪失有り様を整合させるスタイルとの齟齬も相まって)達成されません。
これは個別性が根拠になる局面での具体化精度の低さ(問題状態と言えるものの総体像、
含まれてる具体形パターンが網羅的であるほど個々問題に対する井の中の蛙性を抑えられるものの、上で言う後者的齟齬も含まれてる為に単純に量を求める話でもないそれから、
自分が具体的に関わる問題を切り出す作業一つとっても、教育は精度の悪さを放置してる事実)を意味するので、
抽象化具体化の不十分さを解消するまで解決としない実践は、文系者にとって現実的ではありません。
しかし、本番で見通しの甘さが露呈する(見通しの甘い介入によって事態が悪化する)等は常に起き得るとはいえ、
余裕のある時に都合の悪い事実(修正作用の上限化に必要)と向き合わないフェアネス欠如(局面事情と着目無視の齟齬)からくる見通しの甘さ残存については、
そこの具体化精度の低さに起因してるわけで、この現実的でなさは、生遂行にいらぬ劣勢を負わせてる
(指揮官レベルの場合、味方全体にいらぬ苦境を負わせてる)事態の常態化に他なりません。
もちろん、今何の差異が問われてるかという局面の固有性(局面事情)を取り違えた選抜結果
(ドーピングによる金メダルのような問われてる差異の取り違えを利用した帰属関係の操作が、外在秩序に反映される展開)も、
場Aでの価値体系を場Bでの価値体系に持ち込まない態度(意味の有る無し含め、内面世界なり何らかの社会なり文脈なり、
場の性質把握を上限化する前に価値を確定させる安易な知性倫理美意識を避ける態度)の形骸化
(したがって、場の本質の下の平等の形骸化や、表層形を根拠に断罪するのを、表層形を問題にしてるという表層形込みで、内実の確からしさへの着目によって避ける無差別性の形骸化)も、
既存の教育にとって修正対象外と言え、受容に値しない優勢劣勢振り分けに許容的な環境
(自身の行動原理を仮説として見た時の、その検証情報も劣化してる環境)の原因になってる形です。
実際、対人での何となくの印象獲得であれ、行動原理とその具体化条件を掴まえてるように、現象の実態を内在性質と外在性質との統合体
(理想現実関係のような割り引かれに着目するなら、抽象物と具体化条件との総合体)として捉えた時の、
代替不可能な内外性質の統合状態(内外境界の発生意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、この両者から成るので帰属修正の限界点であり、
存在現象にせよ認識現象にせよ、これ以上を求めるのは下で言う過大要求な疑似問題、
言い換えると、有限性に向き合わず、抽象化と具体化条件割り出しの両上限化から成るが故に、
修正余地がないと言える割り引かれや加工まで拒む絶対主義である為、その時点での解決状態)とのズレを、
問題状態(例えば、生は呼吸等の問題解決の集積なので、生を含む現象を取り扱う際の問題解決観の抽象度不足は該当)
とする問題解決観を踏まえた対自他も対文系概念も、既存の教育を通しては期待できません。
(問題状態や解決状態についての取り違えを保存させたまま実社会や学問世界に送り出してる以上、
主体現象であれ概念現象であれ、対文系事象において帰属修正を限界まで持っていく能力が損なわれてる状態での問題との対峙、
当然、疑似問題に取り込まれ、疑似解決のまき散らしにも繋がるそれを、けしかけてるとさえ言えますし、
泣き寝入り強要を苦に亡くなった人が死人に口なしな扱いを受けていたら、泣き寝入り強要の追い打ちをくらってるわけで、
こうした事例を見聞きした際には、教育が帰属修正能力を可能なだけ引き上げてから実社会に送り出してれば生じなかった部分、つまり、教育に責任帰属のある部分も混じってると捉えるべきでしょう。)
対人で言うと、対象人物(の創作物込み)が自分自身から実際に受けてる扱い(を行動原理とその具体化条件の採用実態として捉えた上で、
それらについてのその時点での確からしさが上限である仮説)と、対象人物の実存有り様が先の実存方針の反映である場合とのズレ、
および、対象人物が何らかの社会から実際に受けてる扱い(余裕のある人とない人での違いなど、局面レベルでの役回り振り分け込み)と、
その何らかの社会が先の実存方針を生きてる人だけから成ってる場合(社会という場の個別性、形式なり割り振り結果なり場の上に立ち上がってるものの根拠になるそれが疑似でないケース)とのズレに、
知性不全や倫理不全や美意識不全を覚えるところまで、既存の教育はカバーしてないわけです。
(むしろ、個別性が根拠になる局面でも、個別性捨象な論理像を展開する事が論理性であるかのように刷り込み、
言わば、金メダル獲得という表層形であればフェアに得たものかアンフェアに得たものかという内実を気にしない方向、当然、上のズレているいないも気にしない方向に誘導してる、
もっと言うと、文系概念としての論理に関する先の期待できない事例に当たる話で、
対論理での文理差異を個々具体とする抽象次元に遡らない抽象度不足という問題状態を、
加えて、文系事象への反応が今何の差異を問われてるかについての取り違えによる低精度な選抜処理の産物である証拠となる、
個別性が根拠になる局面での個別性捨象という帰属関係の修正余地への鈍感さを、保存させてさえいるわけです。)
したがって、主体や社会への内実不問な肯定に真善美を結び付けてる内容の主張
(前者には、個人や文化に対して個別性捨象なリベラル文脈も、個人を過剰な帰属持つ状態でも保障するリバタリアン文脈もある)の、
どれに丸め込まれてもおかしくない状態のまま、実社会に送り出し続けてきたと見なせます。
ここの丸め込まれの可能性を下げるのが、文系概念としての論理が機能してる知性倫理美意識であると言えるのは、それらが、
理系概念としての論理を、表層形が同じなら内実は気にしない方向に向かう個別性捨象の下での整合として見た時の、
内実が確からしいなら表層形は気にしない態度を、内実の確からしさが損なわれないように全体の秩序という表層形を構築する方向に拡張した内容の整合と言えるからであり
(それらから見て、例えば、場を荒らす行為を、場の本質に応じた結果のものかどうかと関係なく、
特に、場の表層に合わせてる内容の空気読む等との二択の位置づけで、肯定否定するのは、避ける態度の対象として先に見た安易な知性倫理美意識扱いになりますし、
個人や種における何かができないという有り様自体を、代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針を自身の具体化条件とする事によって、
何ができて何ができないか等の有限性形態に修正余地なさを持たせているいないと関係なく肯定否定したり、
その有り様が受けてる扱いを、置かれてる場の疑似でない性質と関係なく肯定否定してる反応についても同様です)、
主体の個別性が社会から見て望ましいか否かや、そこにどう介入するかでなく、
主体や社会(主体の集積)の個別性が疑似化してるしてないという、存在するのと引き換えとは言えない要素までが存在尊重の名の下に影響力を持ってる程度が、
問題になるそれらにとって、上で言うズレを修正余地として掴まえる事は論理性の一環であるからです。
なので、自身の生遂行有り様を、修正余地がないという意味で受容に値するものにする
(修正余地ないものを選ぶのは、通用領域のより広い方がより確からしく、選ぶに値するとの理解の現れであり、
存在するという課題にとっていらぬ劣勢条件と言える、損なわれてる状態への過剰反応によって選択に根拠をより必要としてしまう事態を、
事実なりフェアの帰結なり、通用の行き渡ってるものへの受容的態度をもって抑える方策と整合的なこれの)為にも、
あるいは、対自己含む存在尊重に、負わされるに値しないものを負わせてくる世界に個々存在が置かれるのを望まない、という内容を持たせる
(これによって、尊重が帰属関係操作への鈍感さ及び加担に、言い換えると、知性倫理美意識の機能不全に繋がるのを防ぐ試み込みの)為にも、
足し算を盛らないのと同じレベルで、獲得喪失具合(展開具合込み)よりも観点設定精度の上限化を優先する程に、冒頭の能力を育てる事も可能だろうに育てず、
自身に固有であると勘違いして自身に帰属させてる問題からの解放機会を奪ってさえいる既存教育と、整合的な自他は修正対象にならざるを得ないと認め、
過大要求(修正余地のないものを問題状態と見なす解決不能性から成る疑似問題)も、過小要求(修正余地を受容する疑似解決)も、同時否定する対自他を採用し、
また、修正余地のない主体状態を、代替不可能な内外事情にしか応じてない有り様(抽象化具体化の不十分さ解消状態)とし、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針は求める(これを具体化する際の具体化条件が同実存方針であるならば、
具体化の結果が表面上は求めないというものでも、それ以上を自己に求めない)けれど、それ以上は求めない対他者(言説や問いも込み)を、
対管理者(例えば、小学生にとっての親や先生を一有限者として捉えた際の受容する不完全性と受容しない不完全性の振り分け基準)や、
対文系権威(利己利他対立や主観客観対立を前提にした主張に代表される、
抽象度を上げるべき局面で明晰化に走り、林檎は数えられるけど蜜柑はできない的次元での洗練に留まってる言動などへの対峙方針)にも採用しましょう。