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表層形で断罪しがちな善悪観を刷新し、思考や議論の、歴史の展開を矮小化する権益対立フィルター反射を外す、この方向と整合的な平等自由同時希求について(3500字)

2020-9-006

個人的に(不当利得を許容しない形での)平等と自由の同時希求として、
対人における、局面に即した着目無視に徹した振る舞い(そのような着目無視と振る舞いとの合致問題に鈍感であるなら、表層的要素に対する、符号反転対処含めた大騒ぎに繋がる)をしつつ、
同時に、対象の精神面がいらぬ囚われ(その種の大騒ぎ)を負ってる程度を評価し、局面次第では扱いに反映させるような対応方針をイメージしてるのですが、

振り返ってみると、選択ミス(特に、努力すればするほど不幸が強まる事態の発生)の可能性への対策(不可避性への対策込み)、そんな感じの問題意識からスタートして、
その流れ(確からしい根拠への希求)から、平等や自由、両者間の関係についての解釈がその対応イメージに相当する内容になった、という記憶です。

その後、大騒ぎも見て見ぬ振りもしない反応方向(表層的要素に合わせる事をいらぬ限定と見て組しない方向)の先に立ち上がるものとしての平等や自由というその解釈と、
他の解釈との関係を、質と量の関係で捉えてたので、
その反応方向の保障や追求、あるいは、それらに伴う制約に実質(いらぬ飛躍のない様の源泉)を見るという、

質に対する理解(質と量の関係でもって多様性なり、得られるものなり、表現なり、フィードバックによる変遷なり、掛ける迷惑なり、展開の紡ぎ方なり、量先行形先行との付き合い方なりを捉える際の枠組み)や、
形骸に対する選択(実質有りと勘違いしてるも同然な扱い)回避も、同じ流れという事になります。


通用が行き渡ってないものを行き渡ってるかのように扱う不当性の回避(何らかの観点におけるより確からしい方が選ばれる以上、デフォルト)は、
ある種の(とはいえ、何かの存立に関わり得る)有限性への対策に当たる、
その場その場の代替利かない固有性(これと着目無視の一致が先の反応の実体)の保障管理(及び責任ポジションへのその要求)や追究(及び通用十分な場合のその実装)によって、

形骸善でなくなってく(対悪人という枠組みから、対有限性が方向次第で善の形骸性を下げるという枠組みへの転回)、
その運動性への阻害が最小な場をもって、大切にできてるつもりでできてない、妥当に扱ってるつもりでできてない、引き受けるべきものを見出してるつもりでできてない事態はじめ、形骸全般への通用(勘違いでなく価値を語れる)とする。
結果として、そういう話を(有限性そのものへの拡張可能性含め)期待してる形になるかと思います。


例えば、通用性判定での観点変更自体は、次元設定自在性という人間性の反映だとして、
上のようなできてるつもりをつもりでなくする方向である、扱い(損得の割り振りなど)をその場その場の本質(その場において問われるべき事という、その場に置かれてるものが扱われの原理として納得すべき点)に即させる、つまり、場の本質に即した着目無視に寄せる(場の本質と観点との齟齬解消)変更でなく、

勘違いをそうでないかのように押し通す為に観点(何が問われるべきか)の方を(例えば、ドーピングの金メダルと正当な金メダルの差が問題とならないように)修正する(表層形に合わせる)変更は、
負わされる筋合いのない不幸の発生を生むわけで、

形骸に許容的でない前者と許容的な後者(いらぬ不幸の発生に許容的である裏返しとして、対象が犠牲になる程度を抑える処理も緩い以上、尊重行為もそう見せかけてるだけと、何をどれだけ注ぎ込もうとも言えてしまう形)という、
人間性を用いる方向性の違いが、内実に関係なく表層形のみで判断されがちな善悪に、取って代わるべきだろうと、それが表層形のみでの断罪などの問題への対処の本筋だろうと思うわけです。


また、例えば、個人の外在場と国の内在場を便宜的に同じと見て、プレーヤーと大会運営のような関係を想定する為に、
人権主権の対立構図やその類の権威理論におけるような内政イメージとずれる、
そのずれを前者側に寄せる訴え的な内容を書いてきたわけですが、それらもその対処と構造的に同じ取り組みと言えるように思います。

ちなみに、その訴えには、
内面や局面、国際社会や生物性(を損なわないように組み上がってる、戦略含めた形式)などの他の場やそれらの性質変遷の歴史性構成を踏まえた、抽象としての場の次元での場と齟齬のない体系という像を、
たまたま取り上げた内政の文脈(という場)に落とし込んだものへと寄せる、という話なので、

自分が内面世界でやってる情報位置付けが持ってる原理(場の性質に即した規定や体系化)を、場合によっては、他者も従うよう求めてる理論の構造がそれを持っていてさえ、
しかし、社会が自分への規定で持ち出す事は認めない(ある意味自己否定)的な絶対主義系ご都合主義(不当な利得と引き換えに生じてる不当な扱いへの鈍感さ)も、

質(偏りが代替不可能化されてるか、つまり、場の本質としての偏りのみかどうか)の違いに扱い差を付けないまま開放する相対主義
(いらぬ不幸の発生防ぐ秩序の基底に当たる、上で言う、損失だろうが納得すべきと言える合意点を意味する割り振り原理によって防がれる)系、
つまり、事実上の何でも有りを利用する形でのご都合主義と共に否定される為、

(損な役回りを割り振られたところで偶々そういう場なだけと見なす態度と、内面世界の固有性を尊重する態度が同じ話である事は、
また、主体が置かれてる場において負わされる損失や損な役回りを、その種の有限性を、肯定に値するものへと持ってく上で必要になる原理と、置かれ得る場の性質とは無関係にその主体の有り様が肯定される上で必要になる原理が、結局のところ同じものである事は、

先の例のような、外在場と内在場が重なるイメージやその相似的な拡張を持つだけでも、冒頭の平等自由同時希求イメージの背景でもある、
場全般に対等に接する、それも、反応内容の選抜含む割り振りに関し、その場が採用してる原理を見出す場や評価する場も込みで、という対場についての整合的な、つまり、避けられる恣意混入を抑えた確からしさや全体像と共に、
理解してもらえるはず)

絶対主義と相対主義の振り子(表層反転な解決センス)から外に、その場その場の代替不可能な固有性と紐付けられてない着目無視を前提に断罪(通用性判定)する弊害込みな世界の外に、
出られない近代パラダイム(に倫理や知性が縛られてる有り様)を過去にすべきとの訴え、

この井の中の蛙状態をまず解消してから個々の傾向性の話をすべき
(内実の検討が二の次になりがちとは言え、理系的捨象に、同種の他との差異要素の捨象に特化する事自体が問題なのではなく、今や引き受ける必要ないパラダイムにそう強いられてる形であるのが問題)との訴えの要素も含まれてる形です。


特に、(10と思ってたら11だった的に判明した)通用してない領域にも通用してる形へと修正する(抽象具体の関係構造を再構築する)運動性を、
矮小化し権益対立状況作った上で競争協調を語る枠組みの外に出る(権益対立フィルター外す)には、
歴史性の質(抽象化や具体化に際する捨象対象選定と局面要請の合致)を押さえる事で、
展開の紡ぎ方の質無視(理想状態への一足飛びや固執)も、変遷作用の質不問(現アイデンティティや現習慣等の盲信的根拠採用)も、当然、左派右派対立の構図に典型な両者の二択状況も、退ける枠組みの採用が必要でしょうし、

その為(これからの歴史を、思考や議論を、より建設的なものとする為)にまず、仮説と実証の往復、言葉の意味合いやニュアンスの使われる使われないの実態反映した変遷(場との齟齬解消)、これら確からしさの向上や確保の例踏まえた、
抽象と具体の行き来が歴史性の形式であり、抽象化と具体化条件(場の性質)割り出しの精度(捨象対象選定と局面要請の合致程度)がその質に当たるとの理解の周知と、

理性感情の上下論や抽象具体の上下論が双方の内実吟味へと向かわず表層反転するセンスの現れと言えるように、権益対立フィルター(による矮小化の常態化)は近代パラダイム(的な捨象対象偏向)の弊害と疑え、
権益対立に頼らずに済む実力として、同種の他との共通要素を捨象する事で固有性やその把握を確からしくする能力が、
人権主権対立乗り越えの焦点である、体系に保障させる(場の)性質の把握でも、左派右派対立乗り越えの焦点である、局面が要請する捨象対象の把握でも求められるとの理解の周知が必要と想像します。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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