人生の内容を特化の過不足の忌避とする方向性と、政治経済を制度論のみで解決しようとする有害性を抑える方向性とは、繋がってるだろうという話
2021-10-009
内外の非対等性、それも両者に同じ構造や原理を見ない意味でのそれは、重大な修正対象でないかと疑います。
(内外を個々具体とする抽象次元に遡れないと、
理解は抽象と具体の関係構造を確立できた感に過ぎず、実力は獲得してるその構造の、現実が持つ複雑さへの通用具合であるだろうに、
帰属させるべき確からしい原理を抽出できてない段階で、言わば、通用してない領域を持つ仮説の下で、対内在にしろ対外在にしろ、話を進める事になる。)
例えば、課題に合わせて形式(組織なりアプローチなり)を最適化(あえての曖昧さ投入も込み)してるつもりでも、
個性や貢献を積極的に入れに行くのであれ、逆に消極的な方が効果的とするのであれ、(内在外在の上下設定がどうであれ、)
どちらもそれ自体は、内実の確からしさを最大化するような処理の有無とは関係ないし、その有無の方が論点としては先立つべき、
といった理解を欠いてるなら、
林檎は数えられるけど蜜柑はできない的状態(確からしい原理の不在)に、
場の代替不可能な要素だけからなる固有性を損なわないような組み上げに関して、外在場と内在場の関係が陥ってる、
そう言えるように思います。
そして、このパターンで害を最も生んできたのが、
資本主義とか民主主義とか、制度のみを解答として提示し断罪する有り様(制度の固持か変更かで議論してる地平)と思います。
(否定自体は、通用領域の狭いものというポジションを割り振る処理でしかなく、
割り振る際の観点について通用領域の最も広いものを選抜する、メタ割り振りが論点なので、
何かの否定を主張してる形な時点で、この観点を選抜すべきであり、それ以外の観点は本質的でない、
この差異を取り上げるべきであり、それ以外の差異を持ち込むべきでない、そう言ってるも同然、つまり、場の固有性の提示を含んでいて、
局面と着目無視を合致させる能力が、局面の性質を取り違えるせいで不全な場合、
応答を問い、つまり、取り上げるべき差異に紐づける事ができてないものをごり押しする形になる為、
非を認めず居座り続ける浅ましさも、そこの不全に起因する帰属修正作用の消失という、知性や倫理の矮小化の現れと見るべきでしょう。)
実際、内在外在の代替不可能化させた固有の事情にしか応じない主体像を志向し、信頼対象とする
(余裕がある時の、消費や投資の優先対象化など)人の割合を増やさなければ、
場の性質に合わせた制度を組み上げようとも、
場の性質が疑似的なもの
(理想と現実との間の割り引かれ関係が安易であるにもかかわらず、そうでないかのように扱われてる事態)に留まってる分、
場に合わせてるとは言っても、場の表層的事情に合わせてるに過ぎない(つまり、矮小化に陥ってる)と見なせるはずです。
(場の表層的事情に合わせた需給成立は、場の代替不可能な固有性からの乖離具合を質と見た時の、形骸事態を意味するので、
制度に対する、これまで見られたような、上で言う割合増加と無関係な言及は、
質の観点を、形骸化抑える帰属修正の働きを、知性や倫理が十分に持つとは言い難い状態の現れ、
知性自体や倫理自体を矮小化させてきた、知的上層の場合は権威への接近の達成容易さと引き換えに知性や倫理への過剰な特化を許してきた、現れでしょう。)
対立構図に焦点を置き、フェア主体とアンフェア主体を区別せずに保障する、既存の権利観に至っては、
各場の代替不可能な固有性に即した割り振りへの支持をフェアと見なせば、場の固有性の発現保障に別の何かを先立たせてるケースも保障する以上、そもそも、場の性質に合わせるという内容すら持ってない
(生物だろうが無生物や概念だろうが、場に置かれるという事態に至ったものには全て、
場の代替不可能な固有性という、引き受けざるを得ない限定性に、即した割り振られである事をもって、具体的有り様を納得してもらう秩序への道を塞いでる)わけですし、
内面世界から見て国を外在場、国から見て国際社会を外在場と位置付け、つまり、同じ場を文脈次第で内在場とも外在場とも扱い、
各場にその固有性を損なわないような形式や帰結の組み上げという原理を求める、
話がこう展開せず、人権主権の対立構図で満足して、主体の内実差異
(場の固有性を表層形に反映させる能力の機能具合)を埋没させる問題意識が保存されるのも、
遡れば、内外の先の意味での非対等性に原因があるはずです。
ところで、極日常的状況でも空気を読む(場に合わせる)日本的なイメージでは、個人の存在肯定的に満足しない人がいたとして、
その感覚も、文化(問題解決スタイルの社会的偏り)やパラダイム(近代性の場合、内在不問外在軽視な素朴自由観を、分離処理の成功体験の分だけ強化してるのに、教育の土台になってる)に由来するのであれば、
認識への枠組みインストールという形で、場に特化した結果のものと言えるでしょうが、
内在外在の代替不可能化させた固有の事情にしか応じない(表層的事情に応じた場合に可能になる事を受け取らない)主体像の下での特化であるなら、
その特化に過不足はない
(その主体像への志向を要請、育成しない既存の教育には、
表層的事情に応じる事で可能になる類も込みで成立達成に励む人間を、修正する力はない)、そう考えます。
ここで、通用領域のより広い方を、できれば、通用の行き渡ったものを選ぶという不可避な選択反応は、
有限性(能力なり自他境界なり)の不可避性を踏まえた対人生として展開されると、
特化の過不足の忌避(その現れが傍からどう見えようが、本人にとっては選ぶに値するもの)がその内容になる、
そう解釈するとして、この場合、その反応と内容との間の分断
(例えば、何かについてのできないという状態をもって、先の主体像の結果であるかどうかと関係なく、自分で自分を断罪してしまう)をいかに架橋するかが問題となるわけですが、
恐らく、そこの分断は、
近代以降、同種の他との差異要素の捨象次元の厳格維持をベースとする論理が、文系的局面を侵犯してる、
ヘーゲルの修正点は、具体化精度の低いもの(理系で言うと、実験精度の低いもの)を統合対象に含めてしまう歴史観にあるとは、今なお見なされてない、
これら展開というものに纏わる誤解と同種のものなので、
展開は抽象と具体の行き来から成り、抽象化と具体化の精度最大化
(この時、限定作用の不可避性の下でなお、通用の行き渡ってる状態が確保される)
を意味する捨象対象選定の達成(局面と捨象対象選定の合致維持)を論点とする、
この理解に沿う事で解決は可能と期待します。
(実際、条件の悪さに対し、大騒ぎという反動反発系や、見て見ぬ振りという妄信系が生じるのも、
小学生であろうと獲得は全然可能な、局面と着目無視の合致維持への志向を持たないからでしょう。
ちなみに、できるできないへの大騒ぎ問題と共に、小学期に解決しておくに越した事ないものとして、親や先生への過大評価問題があると思いますが、
どちらも、必要となる処理自体は、
対象を有限能力な、つまり、不完全さが不可避な一人間と見なしつつ、どういう主体像の下で生じてる有限性なら許容するかを押さえる、という同じ内容と推測します。)
言い換えるなら、何ら限定されてない状態の準備、引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、
この両者の最大限化という問題(確定的扱いの強弱含む、割り引きの過不足の縮小)だけが唯一あって、
内在外在の代替不可能化させた固有の事情にしか応じない主体像
(表層的事情まで代替不可能的に扱う妄信系も、その逆である反動反発系も否定する、表層性に振り回されない有り様)、
各場の代替不可能な固有性に即したポジションや具体的有り様の割り振りへの支持(フェア)、
さらには、固有性の代替不可能化を実質としても可能にする捨象観
(局面と着目無視の合致志向が、文系的局面での、同種の他との共通要素の捨象次元の維持を可能にする、つまり、近代性の過去化に相当する)、
これら(外界への反応が歪みを持ってしまうのを抑える内容、つまり、通用を行き渡らせる働きへの阻害要因を取り除く内容)を、
自由や平等の中身に差し替えれば、これらも上の唯一ある問題の一具体形(それぞれの文脈に合わせて形を変えたもの)ですから、
内在不問外在軽視な自由観(解決像)、ひいては、内外に同じ構造や原理を見ない非対等性
(例えば、内面場の産物である感情と局面に合わせる能力としての理性が、上下論に矮小化される事態)の根本的解決は、
上の唯一ある問題と整合的な形に個々の問題を捉え直す、個々具体の再位置づけ(井の中の蛙的状態からの脱却)にかかってると想像します。