2419文字、知性倫理美意識の像や幸福論の類を評価する際の基準について、主流哲学の傾向にも触れつつ
2024-4-005
Aさんの方がBさんより短距離走において優れてるという情報だけでは、長距離走なり運動能力なりにおける関係
(他の場での関係)については仮説を持てるに過ぎない(仮説以上の扱いはいらぬ飛躍になる)わけですが、
短距離走についても、厳密には、問われてる差異が取り出される(場の取り違えでない性質と着目無視、ひいては、場に置かれてるものの受ける扱いとが整合する)ように、
プレーヤー立場と管理者立場とがそれぞれの立場から取り組んでる必要があって、
ドーピングや審判買収をはじめ、問われてる差異が取り出された結果であるかのように見せかけて他の差異が混入してる結果
(言わば、実験精度が高いかのように見せかけて低い結果)をまき散らすのは、
帰属関係を操作された秩序の中で生きる(修正余地のあるものをないものかのように受け取る)のを強いる(ある種の不自由強制)のに等しい為、
その取り組みの不全は修正要求の対象であり(もちろん、人権主権の対立枠組みが、あるいは、生徒先生間や子ども親間の既存の関係パターンがそうしてるように、
他方の立場へのこの種の内容の要求のみが通る秩序から見た、発される要求や通る要求の過不足把握は、
埋没させられ得る)、各場の尊重に失敗してる内容な対象評価はこの意味で修正要求の対象です。
以上を認めると、個別性が根拠になる局面における個別性の取り違え最小化を先立たせているいないの差異が、既存の文系空間では評価に反映されてない点をもって、
文系者という観点での権威扱いは、同じ意味で修正要求の対象になりますから、
AさんはXについて詳しいかもしれないし詳しくないかもしれないにせよ、その詳しさ具合が、取り違えを最小化した内外事情にしか応じない実存
(対象が負ってる条件の良し悪しによらずこの実存を自他に要求するのは、要求先や世界の獲得喪失有り様を、確からしさが上限化されてる根拠の反映とする試みに等しく、
この要求を内包してない人間関係の肯定は、修正余地を持つ帰属関係の許容に、
ひいては、奪い合い世界の許容、自身をわざわざ帰属操作にさらされるといういらぬ振り回されが生じてる環境に置いてまで、泣き寝入り立場発生の余地を作ってる形であるこれに等しい上に、
現象解釈における帰属関係把握に自信がある場合の、林檎は数えられるけど蜜柑はできない的な原理不在が意味される、
また、実存に含まれてる防げる類の取り違えの反映部分に、つまりは、中学生でも公式への代入の結果物という関係構造は持てるわけで、実存を行動原理とその具体化条件に分離した際の両仮説の改善不全に、
付き合わない対自己は、対他者も同じ内容でない場合、同原理不在が意味される)を生きてる結果でないとか、
個別性の取り違えを最小化してないものも混じってるのに整合的というだけで満足してしまう
(既存の論理観を妄信してたり、表層を拭う露呈で済ませたり、具体化精度の高低差異無視で抽象化するせいで、
通用が行き渡っているいないについての検討対象が表層次元に限定されていて、
同種の個々の個別性を具体化条件として付したり外す処理が不十分なもの、例えば、外してから付し直す処理が不十分な類の常識や自己や自身の取り組む問題などに対し、
いらぬ限定を負ってる状態にあるとは見なさずにいる内実次元不問な人達もここに含まれる為、ここ百年主流の三つの哲学系譜が持ってる傾向でもある)、
といった事実の確認をもって、同種の他との差異要素捨象(個別性捨象)を先立たせてない(客観視不全等が生じてる)理系者の文系者バージョン
(多いほど文系空間がぬるくなるので、ぬるい環境でしか通用しない人でも権威取得が可能になる原因)として扱う方向への修正が必要でしょう。
ところで、理想を割り引いたものとしての現実、という理解を認めると、確かに理想とは限定を受けてない状態に相当しますが
(ちなみに、上の実存は理想ポジションに対する割り引きを最小化してる現実の一種と見なせる)、
何でもあり的な状態を理想ポジションとして捉える(その状態の肯定を存在尊重と結び付ける)のは、近代性パラダイムに留まってる証拠の一つになると考えます。
この場合の近代性パラダイムとは、科学の分離および個人の精神の分離に関する成功体験からくる、
個別性が根拠になる局面での、個別性捨象(による個々の内実不問)と内実不問な個別性の根拠化から成る二択な地平(言わば、カント立脚とデカルト立脚)、
もっと言うと、この二択による同種の他との共通要素捨象の埋没、つまり、先の先立たせているいないの差異評価の不在の事です
(したがって、文系者という観点での権威を持つ者が、何でもあり的状態を理想扱いしていた場合、修正要求の対象になる)。
逆に言うと、個別性の取り違え最小化が先立っていれば、同種の他との差異要素捨象ベースか共通要素捨象ベースかの違いがあるだけで、理系における原理抽出の結果と何も違わない為、
文系における理想とは、何でもあり的な状態ではなく、場の尊重(場の個別性の取り違えの放置は、
他の場による越境の許容と捉え、林檎は数えられるけど蜜柑はできない的な原理不在が尊重について言えると見なす)の下での整合の事になるのでないか
(個別性の取り違えを最小化した内外事情にしか応じない主体像の下で生じる、この理想についての像に対する割り引き以上に、
割り引きが生じてしまう内容の知性倫理美意識のイメージや幸福論の類は形骸扱いすべきでないか)と疑います。
(自他の認識場であろうと何らかの社会であろうと、場の取り違え最小な性質と場に置かれてるものが受ける扱いとのズレを、
修正対象にしてるとは言えない人の想定する倫理は、モラルハラスメントについて意見する系倫理込みで、
既存の構造の弊害に対する薬をばらまく事によって既存の構造を正当化する内容にしかならず、知性や美意識も同次元に留まると認めましょう。)