3278文字、文系権威が発信する情報との付き合い方、および、哲学が実質を得る為の条件について
2024-8-004
例えば、利己と利他を上下論(序列付けは場の取り違えでない個別性に即したものでないとドーピングによる金メダル的な茶番となるのに、
場と無関係に表層形による断罪)で捉えてしまう人には、利己利他を個々具体とする抽象次元に遡った上で、
具体化条件(場の性質)に合わせて利己利他を両極とするスペクトラム上の点を選抜する
(表層形は取り違えを最小化した具体化条件次第、つまり、内実確からしさが上限でありさえすれば良いとする態度をもって表層形を開放する)という発想や処理がないわけです。
同じ事は、硬軟スペクトラム上の点選抜(取り違えを最小化させた局面事情に合わせて明晰曖昧を両極とするスペクトラム上の点を選抜する姿勢込み)でも言えるので、明晰と曖昧の上下論、
二項対立という表層形を否定する表層形反転に解決を覚える発想も含むそれは、
抽象具体関係構造(限定を受ける前後関係であり、有限の与件性の現れ)、および、抽象化具体化の不十分さ解消の論点化(有限性に修正余地なさを持たせているいないの差異と解決状態問題状態の差異との一致)を前提にしていないが故と見なせます。
理系において現仮説では説明できない実験結果が判明したので、仮説を修正した結果、
あるいは、現代日本の常識や他時空の常識といった常識に関して持っていた既存の情報にとって新たな具体形パターンが獲得されたので、特定時空性を外した像を刷新した結果、
抽象次元の通用性向上(低い実験精度の実験結果をフィードバックすると仮説の改悪になる為、厳密には具体化精度の上限化が条件であり、
文系の場合、個別性の取り違えを、最小化できてないとの意味で保存してる情報は、
自身の思考も含めて条件を満たしてない)に伴い、個々具体が再位置づけされた(個々具体についての理解が深まった)、
という井の中の蛙的状態(両極の取り違えも含む)の緩和に伴う効果を踏まえるなら、
表層形反転な解決傾向は理解力にいらぬ限界を負わせてしまってると解せますから、
この傾向が見られる文系権威が発信してる内容は、表層的なものの再生産サイクルを避けるべく、深さを欠いてるものとして接し、扱う必要があります。
逆に、内実の確からしさ上限化(この状態を損なってない表層形)をもって解決とする文系者は、
例えば、代替不可能な内外事情にしか応じない実存(個別性が根拠になるならないという局面事情と、
同種の他との共通要素差異要素のどちらを捨象するかとの整合試み込み)である事、
自身の有限性に修正余地なさを持たせてる有り様(自身が対象に負わせてしまう限定を自身が存在するのと引き換えなものに限る事で、
仕方なさ、選択余地なさを偽装してる形となるのを防いでる有り様)であるこれを自他の責任とした時の、
この責任を果たしてる場合の表層形を解決状態、そうでない表層形を問題状態とする為、
その実存込みでは自他の有り様を(その実存の集積的有り様込みでは環境を)否定しないし、
その実存でない部分込みでは自他の有り様を(その実存の集積的有り様でない部分込みでは環境を)肯定しないわけなので、
こうした肯定否定と文系権威(欧米文系に限らない)の発信内容との間のズレ部分を、
真に受けると先のサイクルに、ひいては、世界有り様の矮小化に加担してしまう事になる欠けてる深さ
(疑似問題に囚われてる状態の現れ)として取り出すところまで含めて対象理解としましょう。
政治に対し影響力を持つケースに至っては被害(負わせて良いものの取り違え)が甚大になり得ますから、
そのような対象理解が可能な人(例えば、皆が仲良くしてたとしても、皆が先の実存でないなら問題状態である、
少なくとも、場の本質が損なわれないように関係を構築したり変化させたりとはなってないとの理解、
これを踏まえてさらに、加害側被害側といった立場も含め属性によらず要求されてるものは同じであるとの理解があるので、いじめ問題の語られ方の論点ズレ具合の把握が可能であり、
自国社会や国際社会に関する秩序の語られ方についても同種の形骸性を把握可能と期待できる人)を増やす事によって、
ある政治課題に関して理想はこうだけれど現実はこうだという時の、限定を受けてない状態の準備や引き受けざるを得ない限定条件の割り出しが不十分である(抽象度不足や上の例でのズレ部分が言えてしまう)為に、
取り違えでない理想を割り引いてしまう程度が最小となるように成立してる現実を志向してる形になってない人
(当然、宗教による解釈含むプラトンアリストテレスの文脈であれ、人間を根拠にしてるカントニーチェの文脈であれ、理想と現実との間の上下論、
一方を軽視する為に尊重について、林檎を数えられないにもかかわらず蜜柑はできてるつもり的な原理不在が言えるこれを採用してる人も含まれる)の提示した政治事象像が、
権威を付されていようとも影響力を持てない文系空間(現状は、自国社会や国際社会の肥大化してない実態を根拠とするよう権力を縛る働き、
ひいては、理想を割り引く程度が最小となるように成立してる現実への志向を、
デフォルトでは内包してない社会契約論や民主主義が、社会の性質から個々事情の疑似化部分の反映分を取り除く為にその内包を意味する先の実存の要求が欠けたままでも影響力を持ててる)に近づけていきましょう。
また、場の本質に合わせる立場(取り違えを最小化させた局面事情に帰属してない価値体系を持ち込まずに対象に接する方針、
扱いの根拠として持ち出せば平等、距離取りの根拠として持ち出せば自由を意味するこれ等)から見ると、
場に合わせる合わさないの表層形反転二択は、場の本質以外にも合わせる過剰肯定と場の本質にも合わさない過剰否定であるわけで、
哲学的アプローチをもって日常を検討する際の日常に対する相対化が、場の本質に合わせる方向性でなく、場に合わさない方向性である場合、
その哲学は具体化精度不足を(文脈に合わない意味特定、問う差異を履き違えた選抜などもそこには含まれてるのに)問題状態として捉えてない以上、
問題状態に関する抽象度不足が言える為、形骸化してる(過剰否定分が疑似問題になってる)と考えます。
なので、哲学が実質を持つには、あるいは、形骸哲学を引き継いでるとの意味での先のサイクルから脱する
(脱するか留まるかを変化不変化と解した場合でも、展開性を抽象化具体化の交互反復と捉えれば、
変化不変化の形骸性は形骸哲学と同じで、抽象化具体化の不十分さの帰結です)には、表層形反転な解決傾向との決別が必要であり、
通念的論理は個別性捨象から成っていて、主観は同種の他との差異要素捨象によって客観を得る素材に過ぎず、
理系なら妥当(理系は個別性捨象の下での整合の話なので、通用を行き渡らせる処理が同種の他との差異要素捨象の行き渡ってる地盤の上で展開されてる限りは、
論理飛躍のあるものを持ち寄って何かを構築してる、という確からしさを欠いた事態は防がれてる)であっても、
文系では個々の認識場に合わさない表層形反転である為、哲学にとって通念的論理の重視
(個別性の取り違えを論理飛躍とするタイプの論理の軽視)は形骸化の証拠であると解しましょう。
慣れであれ努力であれ成功体験の影響であれ、根拠が不十分な特化に許容的である場合、
言い換えると、存在する以上は引き受けざるを得ないものであると可能なだけの検証経てなお言える、
という内容の通用が行き渡ってる感が確からしさ認定の根拠になってない場合、後者論理は軽視されてると見なせますから、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存への、獲得喪失に先立たせるレベルでの志向、
認識場の個別性がこの実存の帰結ではない状態で生じてる感情を根拠にするのは、
存在するのと引き換えではないものを、存在を根拠に正当化してる帰属操作に他ならない(奪う者に罪を見るなら自身にも罪を見ないと不整合になる)以上、
感情を理由とする否定に付き合う必要がないこれは、後者論理を重視してると言える為の必要条件であると思われます。