3830文字、表層しか見ない短絡な知性倫理美意識から成る世界と内実込みで判断する知性倫理美意識から成る世界
2024-12-005
より確からしいものが取って代わる運動性に知性倫理美意識が帰属してないなら、それらの為す判断は常に修正余地がある
(受容に値する状態にまで持っていく働きが機能してないという意味で形骸状態にある)わけですが、
ある人の知性倫理美意識がこの運動性に帰属があると言えるには、この運動性の受容阻害が最小な有限(内外境界を持たざるを得ない)者である、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてる(あらゆる獲得喪失をこの実存と整合させてる)必要があるので、
この実存への志向を持たない人が自身の知性倫理美意識に自負を持つと、修正余地のあるものをないものかのごとく扱うよう強いてる事態(疑似解決の強要)に繋がってしまいます。
実際、割り引かれなどの被限定を嫌がる事自体は、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関が肯定否定保留の根拠である以上、妥当ですが、
通用が行き渡っているいないの判断は、内実次元(上で言う受容阻害の程度問題、
特に、抽象次元を改悪させるフィードバックに対する許容しているいないの差異に相当する、具体化精度確保への志向の有無問題)込みで世界を捉えてる人と、
世界を表層次元に限定した矮小世界を生きてる人(知性倫理美意識の論点が冒頭の帰属問題でない人)とでは真逆になり得ますし
(前者においては、代替不可能な外在事情を外在場全体に行き渡らせる内容の整合として生じてるなら、割り引かれは肯定される)、
個別性が根拠になる為に個別性の取り違えの修正余地がそのまま論理飛躍になるなど、内実の確からしさが問われる局面では、
後者の知性倫理美意識の働きは、論理飛躍に対して不問な分だけ必ず短絡です。
(文系教育が個別性の取り違えを論理飛躍として扱っていた場合、被教育者は、
自他によらず、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてない人による自身の感覚なり感情なり問題意識なりを根拠にした振る舞いすべてに対して、
理系において通念的論理の破綻が受けるのと同種の扱いをするよう方向づけられてるはずなので、
帰属関係に修正余地のあるものをないものと同等に扱うよう外界に強いる内容の個別性根拠化に対し許容的な文系者は、親の的外れな世界理解をそのまま引き継いでる子ども的な妄信事態の、
個別性が根拠にならない局面では個別性捨象が要請されてるように、個別性が根拠になる局面では個別性でないものを根拠としないよう個別性取り違え最小化が要請されてるとの理解の不在バージョン、
あるいは、持つ持たないでなく、仮説改善の対象と捉え、フィードバックが改悪とならないよう具体化精度確保を論点にしてるアイデンティティ観なり行動原理観なりの不在バージョンの体現事例と見なせます。
ちなみに、小学生前半時点で、親や先生を不完全さ持つ一人間として捉え直しつつ、有限者性の反映である限定条件の下での上限において生じてる不完全さのみを認めるという、
絶対主義的安易さと相対主義的安易さの同時回避に相当する態度の獲得課題が生じていて、
この課題をこなして以降も、自己含む有限的に在るものすべてに拡張しにいくのが、対有限性での通用性獲得の上限化であると解すと、
他者の一種であるテキストも拡張に際して取り込まれる以上、上の妄信事態が言える人の対テキストは、
通用が行き渡ってない対有限性なテキスト経験の積み重ねと言えて、通用を行き渡らせてる場合のそれとのズレ部分を、
許容に値しない不完全さとして、上の課題をこなし、かつ、拡張してる人に扱われる事になります。)
例えば、AさんとBさんが共に運動方程式は間違ってないとの理解を持っていたとしても、
背景に持ってる物理学世界の広狭や見たり用いたりに慣れてる程度といった差異が理解に反映されてる分の差異はあるわけで、
AさんとBさんとで反映に差異が生じるのは有限者性の中身である内外事情(資質環境、内面局面)に差異があるからです。
そして、AさんもBさんも代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてるなら、両者の間の差異に修正余地はありません。
言い換えるなら、この実存有り様を放棄してまでAさんとBさんの理解を近づけるのは、存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させる帰属操作に許容的である事態を意味する為、
存在にかこつけた搾取を許容しないなら、正しさを何度も確かめられる類のものすら、この実存有り様が共有の限界であるわけです。
同様に、AさんもBさんも代替不可能な内外事情にしか応じない実存有り様(自分に帰属してると誤認した上で帰属してない事実をもって不自由や不平等と見なす、という意味での概念の不正使用について、
内実次元にまで遡って防ぐ徹底阻止込み)を損なわないように振る舞ってるなら、両者の遠近に修正余地はないと捉えるべきで、
この時両者は、競争的に見えようとも存在にかこつけた搾取を負わせておらず、
協調的に見えようとも存在にかこつけた搾取が生じない内容の共有で留めてると見なせます。
そして、この種の競争や協調を社会に求めてるのに等しい、あるいは、内実次元込みでも形骸化してない自由平等を
(フェアを越えてまで自他を助けにいく、解決しにいくなど、具体化精度確保を先立たせてない尊重観や秩序観や問題解決観から)保障するのに等しい現象解釈は次のような内容であると考えます。
ある人の振る舞いやそれが受けた扱いに対して、代替不可能な内外事情にしか応じない実存の現れである振る舞いは表層有り様によらず肯定されるという観点
(ある能力やある情報について、持たない場合不利になってしまう状況があると分かっていてなお、その実存と整合しない為に獲得しないという振る舞いも当然、肯定される)、
および、具体的に受ける扱いは場が決める(当然、ある能力やある情報の有無だけが問題になる状況もあって、
こうした内実不問な着目無視の運用が領域侵犯するのを防ぐべく、取り違えが最小な局面事情と着目無視設定との合致なり、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像なりが要請される)とし、
社会が場の場合は、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像だけから構成されてる場合の場の性質を、
場全体に行き渡らせるべく生じてる整合としての具体的扱いは表層有り様によらず肯定されるという観点
(自身の内面世界では整合を展開しておきながら、自身が置かれてる外在場における整合は認めない有り様に対しては、
内在場外在場を個々具体とする抽象次元に遡れてないが故の対場に関する、個々具体全体に通用する確からしい原理の不在をもって、
内在場でも外在場でも整合を放棄する有り様に対しては、置かれてる場に自身を通用させ続けるという存在課題に、
自身を原理不在で対峙させ、軸があれば防げるいらぬ振り回されを自身に強いる自己虐待をもって、
採用に値しないとする態度込み)、これらを踏まえた上での修正余地を捉える側面が含まれてる。
ところで、内面世界と社会は内在場と外在場の関係ですが、通念的な自由は内在場を上、外在場を下とする上下論(内在不問外在軽視な自由観)であって、
これ(結果的に生じる何らかの格差化や何らかの無秩序化)に対する糾弾には、
上下を反転した立場からのものだけでなく、内在場外在場が持ってる偏りについてその取り違え具合を問わずに、偏り自体を嫌がる立場からのものも、
内在場の性質と外在場の性質が個別性取り違え最小化の下で統合されてる状態でないなら、表層有り様が標準的であろうとなかろうと修正余地があると見なす立場からのものもあり得るわけです。
(内実の質は異なるけれど同対象を糾弾してるという表層形の同一性を利用して、三番目の立場からの糾弾に対し、
一番目の立場と言える事例のレッテルを付与する事で糾弾の矮小化を図る試みは、表層次元を生きてる人にしか効果がありません。)
ここで、社会を市場に置き換えると、この自由は外在場に合わせる側の要素となり(絶対主義的安易さから相対主義的安易さへの変換)、
市場が需給実態を根拠にするせいで、具体化精度確保(場の実態でなく場の本質に合わせる内容)を先立たせてない理念でもって、
資本主義(実態に合わせるという立ち位置)に対抗すると実態軽視の立ち位置になってしまう為、
現実との齟齬(修正余地のあるもの)の受容を可能にする何らかの力が持ち出されざるを得ません。
逆に言えば、外在場の個別性に取り違えを最小化した上で合わせる具体化精度確保が、
実態由来か理念由来かによらず、修正余地のあるものをないものと同等に扱わせる働きに屈しない為の条件と言えて、
受容に値する状態にまで持っていけない知性倫理美意識を形骸と解せば、対文系の知性倫理美意識を、さらには、文系の知性倫理美意識の権威を機能させる条件、
別の言い方するなら、個別性に関する帰属関係に修正余地が残っているいない
(例えば、同じ場に置かれてるという事実は同じ具体化条件を付されてる事を意味してるわけで、
具体化条件を付される前の状態と具体化条件、この二つに帰属があるものに関する、この二つの個別性の取り違えが最小化されているいない)と、
問題状態解決状態とを一致させる為(一致してないとの意味での疑似問題や疑似解決を押し付けないし、これらに付き合わない、
例えば、自由という理念を重ねないし、重ねられてるものは知性倫理美意識の機能不全の産物として扱う為)の条件にもなると考えます。