対無限性(神等)と対有限性(死等)を無限と有限の関係正常化に統合する枠組みをもって、ニーチェ、ハイデガー、その次としての新たなルート(近代性との決別込み)を切り開けるはず
2020-5-001:
無限性も有限性も既に与えられてるものであり、我々にはそれらの間の関係性の問題があるだけと、
対無限性(神等)も対有限性(死等)も無限と有限の関係正常化追求に統合する事で実質を得ると疑います。
ここでの無限性には、通用領域の広狭と確からしさとの相関、より確からしいものが取って代わる運動性、
この両者から成る言わば、確からしさそのもの(認識も依拠が不可避な第一原理)を想定してるので、
何かについての確からしさが求められるという、無限性への限定作用(有限性)における、
その何かに当たるのが、無限性と有限性の間の関係、という二層性がイメージされますが、
理想と現実、物自体と現象、これらもその枠組みで捉え直す事により、
体系化に際する零れ落ちへの問題意識に連なりつつも、
ニーチェやハイデガーとは異なる対プラトンや対既存哲学が可能になると期待します。
また、主体等の前提化を問題視してたハイデガーの方がニーチェより、
保存すべき対象として想定してるものは確からしい(相対的に損なわれてない)けれど、
内外分離に解決を見る近代性を問題視(デカルト以降の問題点と)しなかったという批判点の取り違えの為、
認識に先立つもの(現前作用なり)を損なう事実をもって、認識に立脚する事を拒む方向へと進み、
認識の有限性を、代替不可能化させた上での損なわれに抑えてるならば、
保存すべき対象は保存されてるとする方向へと進まなかったという、近代性の弊害がハイデガーにも見られ、
この点に関するハイデガーの修正(理想を犠牲にする程度を条件上最小とする原理によるチキンレース化)、
というか近代性の修正(例えば、不確定への確定扱いでの同原理採用)は哲学に限らず未だ為されてない。
以上の保存対象問題を押さえつつ、二項対立を対有限性(内外境界、差異)にまとめてしまう、
かつ、先の枠組みを以下のように理解する事で、
ニーチェ、ハイデガー、その次としての新たなルート(近代性との決別込み)を切り開けると期待します。
有と無の差異をはじめとする有限性(内外境界)の与件理由
(どちらを始点と見るかに関し、無限性が有限性に先立つ理由)として、
無限性が自身足るべく有限性(歴史性の構造における具体に当たるポジション)を要請する、
という構造(無限性が抽象と具体の関係構造を導く)が想像される。
さらに、無限性(第一原理)が有限性にも、
つまり、何かについての確からしさを問うという限定作用(場の作用)にも、
かかった(無限性の具体化が無限性化した)結果として、
次元設定自在性を備えた我々(有限者の形式)の場合は知性や倫理の働きが、
それら(表層性に振り回される低通用事態からの脱却作用)の実質に当たる、
ある種の相補性(端的にはフェア)によるいらぬ飛躍の除去
(局面と次元設定を細やかに一致させる次元設定自在性を生かす働き)があるという構造が想像される。
その相補性は、抽象化と具体化条件割り出しでの差異形パターンの網羅志向、
問われるべき事(場の本質)と捨象対象の(処理量増大への耐用持った)合致配慮、
この両者によるものであり、抽象と具体の行き来としての歴史性が前者を備えてる場合、
言葉での使われる使われないの実態反映のような確からしさ確保(場との齟齬解消としての通用獲得)でも、
仮説と実証の行き来のような確からしさ向上でも、通用領域は最大化されると期待できる。
原理特定や要点導出といった明確な本質抽出作業を含め、
対象に関する、抽象と具体の関係構造を確立できた感でしかない理解も、その確からしさは、
対象のポジションが抽象側であれ具体側であれ、その相補性から成ってると言える程に現状の最大限に近く、
恐らくは、自由についても同様の構造(形式と実質の関係)が言えると疑える。
実際、体系(二元論や二項対立含む)を崩す試みも、以上の構造理解を踏まえてない為に、
フェア志向(場の本質に即した扱いへの支持)を備えてないが故の、
場の本質を損なわないように形式や帰結(種々の割り振り)が組み上がっているいないや、
抽象化と具体化条件割り出しを最大限追究しつつの歴史性(抽象と具体の行き来)かどうかとは、
無関係であるが故の、表層的で有害な面を抱えてきたとの見立てが十分可能と考えます。
(フェアを越えて助ける、フェアを越えて何かを得る事態を否認せず内外の差を無くす事自体に価値を見る、
その種の善人の迷惑さと変わらない以上、ポストモダンはリベラル同様、負の面への警戒が必要でしょう。)
ところで、コストを他には負わせるが自身は相応のコストも負わないアンフェア(フリーライダー)を、
可能にしてた近代性(主体観や権利観)の弊害は、
フェアの帰結とは言えない類の格差がその典型であったと思いますが、
現在、人類規模の感染症災害(経済への影響含む)として立ち現れてると言えるように思うので、
今後別の形で噴出する可能性も踏まえつつの反省として、
近代性(内外分離に解決を見る結果、内や外の内実にその通用具合を問わないセンス)と決別し、
近代の体系をはじめ、体系性へのフェア志向な肯定否定を備えた時代を目指す機会としても良いはずです。
もちろん、上の期待はその目指す一環とする事が可能です。
いずれにせよ、目指す際は、空気を読む読まないに典型な、
場の表層的要素まで含めて場に合わせる相対性と場に合わさない絶対性の、
二択を踏まえてると疑われる文化感覚に対し、
場の本質にのみ合わせるのを良しとする態度(場に置かれる前後を、上の相補性の観点で捉える理解)、
そこから見た前時代の産物扱いをする事が、
世界を主導してきた欧米的なもの、例えば、世界標準である欧米的知性
(同種の他との差異要素の捨象に特化的という意味で次元設定自在性を生かせてない)に、
足を引っ張られない(例えば、絶対性と相対性の振り子に絡めとられない)為にも必要と考えます。
また、事実に向き合う、事実は事実という受容態度をもって余分な反応を捨象する、
そうした様(上の網羅志向が損なわれてない)の方が事態改善との相性が良いと想像される為、
今回の、災害による死者が現時点で十万を越えていてなお、国際社会のプレイヤーの単位で、
収束を二の次(経済に関しても理想と現実の排安易な関係と見なせないならそう言える)とする有り様が、
見られたり、その影響力に見合う能力や態度を備えてるか評価する整合的基準が見られない事実は、
近代性との決別の為にも押さえるべきでしょう。
その際、小学生でも理科の実験等では必要な次元設定(着目無視)をこなしてる点を踏まえ、
問われるべき差異の取り出しを阻害する要素(例えば、短距離走でのドーピング)の捨象について、
できるのにしない状態から人類が脱するのに必要な犠牲の大きさに関する事実や、
教育効果が自然には波及しにくい領域に関する事実を認める事も、
場の性質の特定問題であったり、フェア(具体化の原理)を越えて自他を助ける正義や善が未だ主流である点
(特定のアンフェアを棚に上げ、フリーライダー状況作りに行ってる事実から目背けてる自己欺瞞の常態化)
とはまた別に、必要と思います。