与えられたものだろうと、秩序に絡めとられも反動もせず、必要な再構成を的確に果たせる日本となるよう、教育やその成果を受け取る側にお願いすべき事についての考察
2020-2-004
主体性重視の教育も日本では、空気なりルールなり前例なりへの、
絡めとられ教育効果が霧散や限定化する、好転の保証のない無闇な秩序拒否へと反動する、
そうした反応を踏まえ、過剰な秩序として拒絶する必要のあるケースについての理解の付与が、
教育の不効率事態への対策として欠かせないのではないかと考えますし、
そもそも、与えられたものだろうと秩序に絡めとられも反動もせず、必要な再構成を的確に果たせるような、
質を備えた主体性の教授には不可欠ではないかと疑います。
実際問題、高学歴が就くような、社会への影響力の大きい仕事ですら、
絡めとられ、場の本質でなく表層に合わせる事で生じるその乖離部分(修正すべき部分)が、
深刻な不幸に帰結しない事を期待してるだけの、ギャンブルも同然な働きぶりに終始してる様が、
今なお見られるわけですから、振り分け機能を発揮しつつ社会に送り出す側には是非、
責任感持って、絡めとられも反動もしない人(振り回されない人)を増やす事に臨み、
過剰秩序への実質的無力さという日本社会の歪みを克服する原動力となってほしいですし、
その為にも教育関係者には、表層的要素に振り回されない人を育てる一環として主体性育む必要も出てくる、
主体性教育には上の理解の付与が必須である、そう捉え直してくれる事を期待します。
高学歴でも絡めとられる人が普通に出てくるという事実は、
教育を受けても、場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力(次元管理能力)を、
管理者ポジションの要件(秩序の責任者への評価基準)と結び付ける事に繋がらないか、
結び付けていても能力評価が機能しない(自他における、場の本質からの乖離を見出せない)という事です。
一方で、小学生であろうと、算数の文章問題を解いたり理科の実験に取り組む局面では、
必要な着目無視(次元設定)をこなせるわけですから、
現行教育も、特定の次元管理能力を育てる事には成功してると言えます。
つまり、現行教育の問題は、
次元管理能力に関する、抽象と具体のより確からしい関係構造の獲得を支援できてるとは言えない点です。
次元管理能力の育成を、林檎は数えられるが蜜柑はできない的状態で満足してしまってる為に、
内面世界や自国社会や国際社会も、無数の局面も、同じ評価基準で秩序を見る道をも閉ざしてるわけです。
この事態の直接的な原因に、同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象で、
前者捨象に特化する知性の世界標準化(近代の帰結)があります。
個人が己の資質や環境をそれらの代替不可能な性質のみ引き受けた結果とは言えない特化、
つまり、個人の内実とは無関係な特化が教育によって追求され、
高学歴であろうと、本質抽出能力に偏りを帯びさせられてる形です。
理解を、対象に関する、抽象と具体の関係構造を確立できた感だと見れば、
そのより確からしい(通用領域の広い)組み上げ能力の獲得支援を欠いてると言える教育は、
理解に質を求めてない、
能動的か受動的かによらず、得たり与えられた知識やスキルや経験に対し、
それらに含まれてるいらぬ飛躍を取り除いた形での取り込みを求めてるわけではない、
そう見なせるので、表層的要素に振り回されない人を育てる教育としては実質を欠いてますし、
世界標準知性(パラダイム)を無批判に踏まえてる形なので、教育を与える側からして表層的なわけです。
日本的には教育関係者には、上の絡めとられも反動もしない人を育ててほしいわけですから、
教育関係者にもその方向に向かってもらうに越した事はないはずですし、
進めるにもかかわらずしないで、世界標準に責任を負わせてる形は、質を備えた主体性の欠如の現れです。
なのでまず、教育関係者に、世界標準の知性や倫理を縛ってる近代性を以下のように捉えてもらいましょう。
知性の働き自体からいらぬ飛躍を生む要素を取り除く試みは、ソクラテスによる提起の直後、
幾何学や論理学への精通を踏まえたり試みたプラトンやアリストテレスの時点で既に実践的だった。
その後、干渉要因を引きはがす解決センス(対象の本来の有り様が内外分離で立ち上がるとのロジック)が、
個人の判断や科学の在り方などへの明晰化(アリストテレスからの開放含む)で成果を上げた結果、
同種の他との差異要素(内実の差異)の捨象(理系的捨象)が相対化されない、
つまり、局面上(場の性質上)要請される事もある処理に過ぎないとの扱いを受けない事態が齎され、
今に至っており、論理学すら、内外分離で関係正常化を図るパラダイムの中にある状況。
その上で、内外分離で満足する解決センスの日本への導入は、
場の表層に合わせる相対性の弊害を、場に合わさない絶対性の弊害に差し替える、良くて次善の策であり、
場の本質に即した扱われ方で関係正常化(いらぬ飛躍の除去)を図る時代の方が本来的、そう見なしつつ、
教育において獲得を目指すべき知性(表裏としての倫理)について、以下のように捉えてもらいましょう。
抽象化と具体化条件割り出しでの差異形パターンの網羅志向(抽象と具体のより確からしい関係構造構築)、
問われるべき事(場の本質)と捨象の対象選択との合致配慮(次元設定自在性としての人間性のフェア化)、
相補的なそれらでもって、場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる管理能力や、
仮説と実証の関係なり同一性と表層変化の関係での、抽象と具体を行き来させる処理能力を機能させてる型。
また、教育に以上の捉え直しを踏まえた方向に変わってもらうとして、
社会の側にもその刷新の成果を損なう要素の縮小が、日本社会の改善には必要なはずです。
個人の判断や国家の権威への明晰化の帰結と言える、人権主権で現実回してくシステムは、
アンフェア主体(場の本質に即した扱いへの不支持)まで保障する内容のまま、今なお世界を縛っていて、
人権主権の対立構図(両者のパワーバランスで解決を図る問題意識含む)を前提とする、
管理の過小と過大の振り子状況もその弊害と言えます。
つまり、先に見た評価基準の問題が制度や倫理圧力の歪みとして現れてるわけで、
例えば、監視社会への批判の中身も、次元管理能力への理解次第であり、
教育側が健全に育てた次元管理能力を、社会側が求めてる状況を作っておく必要があります。
なので、以下のような理解の醸成を、各々がフェアな範囲で社会に対して図っていきましょう。
フェア(場の本質に即した損得や役回りへの支持)をもって権利は律される必要がある。
フェアを越えては助けないとの倫理圧力を、他の倫理圧力の上位に置く必要がある。
子どもでも試験なり大会なり、パフォーマンスを損なわない、できる範囲の管理責任は問われるわけで、
管理主体の違いによらず同じ評価基準(向上方向、管理者の差し替え基準含む)を用いる事ができるよう、
管理主体についての、抽象と具体のより確からしい関係構造の把握を目指す必要がある。
先の獲得目指すべき知性における網羅志向を、性質把握にでなく有り様規定(自由)に持たせ、
合致配慮を、次元設定にでなくリアクション(平等)に持たせたものを、獲得対象となる倫理として扱う必要がある。