日本における変化不変化の傾向(搾取可能状況を保全する常套パターンの側面ある)の弊害対策について(優劣問題踏まえた、近代の遺産との決別にも触れて)
2022-11-008
仮に近代の遺産に次の三つがあるとして、
理性の限界故に理想には至れないけれど理性はごり押しに値する(ただし、ここで言う理性は、同種の他との差異要素捨象を用いる通念的理性)とする説、
弁証法(具体化精度の確保を伴わない為、具体化精度の低いものも統合対象に含まれてる)によって理想に至れる説、
やはり至れないけれど理性否定な(弱者的存在への態度や極端な思考実験から見て現実的でない)現実全面肯定をもって理想に代えられる説、
三つ目は優劣の肥大化問題の有名な事例に利用され、二つ目の流れは優劣に対する力ずくのフラット化という現実的でない事例を齎し、
一つ目の流れは既存の優劣関係を反転させるだけの試みを止められない事が近年判明したので、
優劣問題に通用してない理論群と見なされて仕方ないかと思います。
日本の場合で問題になってくるのは、一律的権利のごり押しはもちろん、場を荒らす系の改善要求は、その場が非対等性の肥大化部分に相当する疑似問題を含んでいようとも難しい、
これが労働有り様に関してすら言える(もちろん、理想には辿り着ける、かつ、理性上位、という前提の下での手段選抜は危険性が高いと前世紀で判明してるとはいえ)ように、
どの流れを汲むものであれ、不当合理は(フェアに割り振られたわけでもない)既存の利権構造を損なうものほど定着しにくいが、
不当合理(場と齟齬のある切り捨て)と過剰特殊(内実不問での個別性保障)の同時否定というルートもないせいで、せっかくの不当合理忌避が利権保全に繋がるという、
変化不変化の有り様(歴史展開の傾向)についてのメリットデメリットでしょう。
繰り返すと、理性の不十分さを指摘して(ただし、通念的イメージを本来的理性として扱った上でのそれ)、
フェア志向でもない(具体化精度の確保に協力しない)のに選抜した感情の類まで正当化する
(場次第性の無視はもちろん、場の個別性をその疑似化の許容故に事実上尊重してない有り様を、
次元設定自在性という人間性に、つまりは、自身の形式に振り回されてる宝の持ち腐れの点で、
理系で言うところの2+3を10や100と言い張ってる的状況と同列視すべきをしてない)とか、
目的合理性の短絡さを指摘して、役に立たなさを短絡に擁護する(例えば、数学追究は、
理系の抽象次元の通用領域を拡張するという、具体化条件付す前の段階の準備として重要であるわけで、
抽象化具体化の不十分さを解消する、つまり、理解や実力を向上させる類と、それによって捨象される疑似問題や過剰権威の類とを区別しない)とか、
不当合理批判にかこつけたり、その為に仕立て上げたりして内実不問である過剰特殊を通しにいく搾取枠組みのごり押し側面、
獲得への固執を意味する内実不問な獲得観の現れであり、搾取可能状況を保全する常套パターンであるそれが、
日本社会の変化不変化の傾向にも、
場の有り様の無批判的受容は一見素直に見えて、チャンス状況を上手く受容できないといったバッティング事態を生じさせるとの疑念も言えるのに、
具体化精度の確保を通した(それを越えてまで自他を助けなくて良い)助け合いでなく、非対等性の肥大化に代表される歪み込みの絡み合い
(例えば、管理者立場とプレーヤー立場との関係の内実について、少なくとも前者でない状態)が前提の、和を乱す乱さない枠組みが持ち出されるなど、
言わば、曖昧さから搾取可能状況を取り除いているいないの区別をしない話(もちろん、対理性の事例で見たように、個人と社会の上下論の類に話を誘導したところで、
同じ問題構造の着せ替えになるだけ、着せ替え差異を個々具体とする抽象次元に遡れない理解力の証拠になってしまうだけ)として、見られるだろう。
さらには、その傾向に振り回される程度を、
内実不問での個別性保障が先立つ為に、現象解釈が不当合理を仕立て上げる形になるという冤罪的非難や、それと表裏である擁護が、
安易に持ち込まれてしまう理解力でしか対象に接する事が、Aさんはこういう人といった仮説形成やその修正は日常的に無数にあるだろうに、できないなど、その傾向に振り回されてる事態を、
不当合理と過剰特殊の同時否定のルートをもって抑えられるだろう、という事です。
ここで、不当合理も過剰特殊も、結局は捨象不全(対内在や対外在において、存在と引き換えのものと言える言えないを区別しないまま、
もちろん、そう言えない部分の捨象と関係なく、個別性を捨象したり個別性を持ち出したり)の現れと言えるでしょうし、
先の三つとは、プラトン問題(理想と現実との間の割り引かれ問題)に対して、
抽象化具体化の不十分さ解消(抽象化具体化の交互反復としての歴史性にまで拡張すると、
ガリレオの時点で理系では、これをもってアリストテレスの対プラトンを乗り越えてると言えるように思われる)を、
同種の他との共通要素の捨象を用いた形で文系にも要求する(それを用いた対局面での具体化精度確保として、理性を捉え直す要求込み)という方向性での解決
(理想と現実の関係がその解消状態にあれば良いだけとの理解から成る対有限性や過去現在未来観)へと進まなかった、疑似的解決物と見なす事によって
(あるいは、疑似問題や過剰権威を捨象してくれるその解消を、有限の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性との合成形と見て、
帰属の修正余地のなさ、つまり、受容せざるを得なさでもあるその合成形へと向かう内容に、なってないという意味で、
例えば、論理観や歴史観が、内在性質と外在性質という両原理の組み合わせ変転についてのその内容でない為に、
不当合理と過剰特殊の二択という、内実の疑似化問題を埋没させる枠組みに矮小化させられてしまってる、という意味で、
機能不全な知性や倫理を、持ち出したり語ったりした産物と見なす事によって)
決別すべきと考えます。
(その方向性において優劣は、
内面や局面含め無数にありかつ変化さえするところの、各場の性質が決める事であり、
場の疑似でない固有性の反映としてポジションや具体的有り様が定まってるかどうかが、他場への事実上の価値体系越境を防ぐ上でも論点になってくるという、
通用領域広狭と確からしさの相関に頼ってる認識作用も含めて、つまり、観点なり認識場なりの個別性の疑似化問題を埋没させる、内実不問な主観の始点化に、遡れる類の内実不問的肯定という近代の弊害への対策でもある、
受容に値するだけの内実の確からしさを優劣に持たせる具体化精度問題、
もしくは、林檎を数えられないのに蜜柑は数えられてるつもり的な、原理不在による勘違いや条件差異振り回され、特定条件固執を抑えにいく事でもある、
場の尊重に関する抽象化具体化の不十分さ解消問題となる。
また、主体が具体化条件である時は、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像が、理想を割り引く程度を現実が成り立つ範囲で最小にする時の現実に相当し、
持つ者も持たない者も、その主体像からの乖離は非難対象となるが、その乖離解消以上は求められない、という意味の平等が追求される。)
つまりは、同種の他との共通要素捨象への厳格さ(余裕があってなお場の性質の深掘りをせず、疑似化部分を差し替えるだけでしかないのに、場に合わさない内容の対処に固執する反応様式含め、
局面の要請でない疑似化を、事実上の他場の性質による侵略と見て、しないさせない態度)、同種の他との差異要素捨象への厳格さを、
文理それぞれの前提とする方向(既存の教育では後者しか期待できない)での社会の再構築
(獲得喪失、成功失敗等が対内在や対外在での前者的厳格さの反映として展開される社会への接近、
特に、無抵抗受容の要求を上で言う侵略的な発想と捉え、抽象物としての教授対象との具体的付き合い方に、いらぬ特化を防いでくれるその獲得観の採用を要請する教育像への接近)が、
社会に見られる変化不変化の傾向(有限性という現実の単なる露呈をもって変革を阻害しにいく、利権保全の常套反応込み)の弊害を抑える本筋であると言えるように思います。