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何が幸福か、それを確定できないにせよ押さえるべき点について(+知る事への無邪気さ、及び、包摂自体への忌避に対する批判)

2022-5-001

侵略された際に抵抗しないよう勧める言説(選ぶに値する通用の行き渡ってる状態、つまり、解決像としての侵略受容)が政治家レベルであった事は記憶に新しいですが、

侵略や分かりやすく歪んだ愛のような極端な事例であれば、
分かりやすさ重視といった局面事情も無いのに有る時と変わらず、平和や愛は素晴らしいものであると内実無視して言い張る事で、
負わされるに値しない内実をしてる平和や愛まで通ってしまう的な搾取可能状況構築も、さすがに成立しにくいとして、

極端でない事例でも成立しにくくする(食い物にされる人を減らす)には、文系の言動に対し、
それは局面の疑似でない性質次第です、それは主体が抱えてる疑似でない事情次第です、判断選抜もフェアな方が結果を負うにも納得できます、
この種の指摘(いらぬ飛躍の指摘であり、引き受けざるを得なさへの帰属要求)が、

たとえ知的権威相手だろうと取りこぼしなく持たれる、内実の確からしさ差に敏感な方向に、文系空間や文系教育を変える必要があると考えます。
(例えば、義務教育期や就学前のお子さんをお持ちの方の中には、子どもを内実の確からしさ差異に鈍感なまま、
つまり、食い物にされる可能性下げないまま社会に送り出すこれまでの教育に修正可能性を覚えてくださる人もいるはずです。
どうか上の指摘を都度意識してくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。)


ところで、規範像というより、幸福像と結びつく事によって内実不問状態(搾取可能状況)に陥るケースもある以上、
幸福とは何かという幸福像の検討も確かに必要であるように思われます。

とはいえ、偶々ある状態にしばらくあった為に、Aに対して嬉しく思うとか特に何も覚えないとか、そうした持ってる観点次第という相対的な側面が想像されますし、
望ましくないけれど勝つのに必要だったとか、勝ったせいで立場が悪くなったとか、立場が悪いせいで難を逃れたとか、
井の中の蛙状態から全体枠を広げる度に良し悪しが反転したり、良さが薄まったり濃くなったりのニュアンスが反転したりも想像されます。

しかも、全体枠について宗教的な話まで含める(少なくとも、外界の実像を捉えてる可能性に閉じない)場合、
宗教家でない大半の人には全体枠を自力で広げるのに限界がある上、他力としても、
どの宗教的説明を採用するのか、そもそも、既存の宗教的説明のうち最良のものがあるとして、それは外界の実像をどれだけカバーしていて全体枠拡大の余地をどれだけ持っているのか、といった問題があるわけです。


なので、幸福像やそのニュアンスは確定的には把握できないものという前提で、
できないや不完全といった有限性について、こういう有限性なら受容に値すると言える時に、その有限性の下で覚える幸不幸でもって、それ以上の精度は求めない事にする、
こういう話になるかと思われます。

そして、受容に値する有限性とは、より確からしいものが取って代わる運動性によって規定されてる形故に、
その運動性への阻害が最小化されてると言える、したがって、上限を意味する受け皿としての有限性形態であり、

有限の与件性(内外境界発生の不可避性)と有限性の代替不可能化(代替可能な要素の削ぎ落し)から成る引き受けざる得なさに帰属してると言える、
言い換えると、何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、この二つが現状での最大限であるなら、
つまり、具体化精度が最大化されてるなら受容する(拒絶もその具体化精度を最大化させる)という受容拒絶方針の産物と言える、

代替不可能な内外事情にしか応じない主体像(および、その主体像の下で抽象化しその主体像を具体化条件とする問題解決という、より確からしいものが取って代わる運動性を阻害しない反応)であると期待します。


ここで、知るという現象について検討すると、
まず有限能力故に、認識対象を認識主体の認識場に置き、その場が持つ偏りに合わせて加工する、という構造になってると想像されます。

また、仮説を検証する実験の精度が低い(具体化精度が低い)のに、実験結果をフィードバックすると、仮説の改悪まであるわけです。

つまり、自他の認識場においてポジションや具体的有り様を規定する割り振り原理になってるものが疑似化してる事態に対して先の拒絶方針
(疑似化部分への拒絶を先の主体像で具体化する方針)を持たない状態での知るという現象は、
井の中の蛙状態から遠ざかってるように見えたとしても、個々具体の次元から抽象に遡って個々具体を位置づけし直す、
という側面が十全には機能してないとの意味で形骸状態にあると解せます。

もちろん、疑似化を排するだけの余裕がない局面もありますから、正確には、
知る事に無邪気であるとか、余裕があってなお質を無視するほど量に固執してるとか、局面事情(外在場の性質)を軽視してる、
したがって、場の固有性(割り振りの原理になってる部分)を疑似化から解放する対場原理(文系においてはフェア志向が相当)が持たれてない、

当然、内在場の割り振り結果も疑似化除去は不十分(その分、問題解決に対する抽象化具体化の不足を許す)なので、何かを知りたいという価値づけも疑似物と言えます。

何が幸福なのかを知りたいとしてもフェア志向が先立っているべきであり、先の主体像は、
内在場と外在場の固有性に対する疑似化除去として捉え直せば、フェア志向と同値と見なせ、先の期待と整合的であると考えます。



ちなみに、包摂自体を肯定否定するという態度は、場に合わせる合わさないの二択な地平故に、場の本質からの乖離を問題視しない、搾取可能状況とも親和的
(例えば、場を荒らすという表層形が、場の本質に合わせるという具体化精度最大化の結果かどうかを区別しないので、確からしさの偽装が可能)な有り様と思いますが、

包摂自体の否定(場の上に立ち上がってるものが場の疑似でない固有性に即してるなら、
硬的であれ軟的であれ受容する先の方針とは異なる)を認識の観点から見ると、井の中の蛙状態にあえて留まってる有り様に思われます。

個々具体の位置づけの疑似化部分を取りにいって失敗してる(先の意味で形骸化してる)上の例とは違い、疑似化部分を積極的に保存してる形なわけですから、

社会なり文系空間なりが物事の通用領域の広狭に厳格でない、観点が内実不問的でも疑問視されない現状
(ドーピングによる金メダル的な茶番が可能な世界)故に許されてきたに過ぎない(選ぶに値しない、通用性の低い有り様)、
疑似化された位置づけを外界なり他者なりに負わせる事に修正必要を覚えない、
都合の押し付け合いの強弱から成る秩序(その強弱を反映させた搾取被搾取関係な世界)の積極的構築者と見なされても仕方ないように思われます。


例えば、世界から主語を切り出すのも、主語を述語化するのも、処理的には同じで、
Aさんの家族構成はこうだとか、Aさんが今何々をしてるとか、そうした対象位置づけは、
場に置かれる前のものから、場が持つ偏りをもってその特定の部分を切り出してる形(場が自身の偏りの下で整合を図る、つまり、通用を行き渡らせる内容から、選択は構成されてる)に思われます。

もしそうした対象位置づけを修正なり捨象なりするにしてもそれは、抽象化具体化の不足を抑える(具体化精度を最大化させる)場に置かれた結果であるべき
(有限の与件性の下での、選ぶに値する通用の行き渡ってる状態に、相当する割り振りの結果であるから)で、
切り出される側からしたら被限定であるその処理自体に肯定否定の根拠があるとするのは的外れと思います。

同様に、Aさんが社会からポジションなり具体的有り様なりを規定されたとしても、
その事態自体に肯定否定の根拠があるのではなく、割り振り原理になってるものが疑似化してるかしてないかに否定肯定の根拠があり、

そこの疑似化除去を論点としてない着目は疑似問題である、
もっと言うと、そんな着目の下で位置付けた肯定否定に影響力を持たせるのは、より確からしいものが取って代わる運動性への阻害を世界に持たせるのに等しい(社会の歴史を正否的に語るには実力が足りてない)、
そう言えると考えます。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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