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2418文字、非対等性への反応が疑似問題化してるなど、負うに値しない問題から人生を解放する(負うに値すものだけ引き受ける)のに必要な態度について

2023-3-006

例えば、可能性に開いておく事Aについては重要性を語りながら、同Bについては無意味扱いや有害扱いしてるとして、

それが、林檎は数えられるけど蜜柑はできない的内実の現れなのか、数を数えられるし何を数えるべき局面かも的確に把握できる的内実の現れなのかは当然、
抽象化具体化が不十分かどうかの話になってくるわけです(恐らくは、科学と宗教の関係であれ)。



同様に、対問題における重視軽視の有り様がご都合主義ではない、ひいては、負うに値しないものを負わないかつ負うに値するものを負う人生である、
そう言えるには、抽象化具体化が十分である必要があるのだろうと推測します。

(ちなみに、情報なり能力なり可能性なりの獲得を、いらぬ特化への配慮も事実上ないまま推奨する一方で、
対象Aの個別性はこれだろうという仮説が、同種の他のBにも言えてしまった場合の仮説修正に対する開放性については、むしろ閉じさせてる形の既存の教育にとって必要な修正とは、

獲得喪失の有り様も、上の開放性への割り引き有り様も、代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合させるよう、働きかける側面の取り込みであると考えます。



実際、上の開放性が高い領域はその人にとっての、文系能力に質を伴わせる事のできる領域であり、
検証精度の低い検証結果のフィードバックは仮説の改悪となる事から、具体化精度確保はその開放性を構成してると言えるので、

フェア志向でないとか、内在不問外在軽視な自由観であるとかで、局面と着目無視の不一致が常態化してる事態は、
文系能力の形骸化を防ぐ方向に教育を変えようと思うなら、解消対象にすべきでしょうが、上の実存にはそこの解消が含まれてます。)



そして、その意味で、疑似問題囚われ(この結果の疑似解決を自他に負わせる生)も、
他者の疑似解決を真に受けてしまう(上の開放性が低い領域ほどそうなる)生も、防いでくれるものが、


我々にとっての問題とは、有限性に対する代替不可能化(通用領域が狭まる分の減耗を限定理由の確からしさ最大化で補填した、限定前後での確からしさ保存)だけである

(真善美なり無限者なりとの間に生じてしまう不可避な断絶も、上の実存の結果の有限性形態による限定作用として生じてる時だけ、それ以上を望めない上限扱いで肯定する事になる為、
断絶の表層形有り様自体は肯定否定の対象にならず、対象にしてしまうと上限要求という平等が達成されない)、

言い換えるなら、我々が持つ責任とは、対有限性におけるより確からしいものが取って代わる運動性に対する阻害の縮減
(認識の前提だろう、通用領域の広狭と確からしさとの相関を、この次元設定で持つ事)だけである

(上の実存はこの疑似でない責任を果たしてる一方で、有限性の代替不可能化を先立たせてない人は、
ここから先は自分に帰属してない、という内外境界の線引きがご都合主義化してる為、責任を語る資格に疑問符付く)、


との態度であり、この態度(先の話から、フェアの結果を求めてない時点で欠いてる事になる)の反映された観点
(したがって、実態主義的にであれ不当合理的にであれ、理想現実関係が安易か排安易かを区別しない類の、

もっと言うと、文系的な抽象化具体化の十分不十分を区別しない以上、限定前後で確からしさが保存されてるものを選べない、
通用の行き渡ってる状態を維持したままの表層形変転も選べない為、対文系での論理能力が形骸化してる類の、

知性や倫理や美意識とは決別を果たしてる観点)をもって個々具体の問題と関わる実践であると考えます。



恐らく、近代以降で最も蔓延ってる疑似解決とは、
実態主義(表層次元の汚れを拭っただけの内実不問な代物の根拠化であり、方法的懐疑などの露呈系はもちろん、市場や民主制も先の実存が過半でないなら含まれる)と、
不当合理(局面の個別性を捨象する通念的理性はじめ、個別性が根拠になる局面での個別性捨象であり、この持ち込み圧力は近代科学の成功以降、常にある)でしょうから、


この二択縛り(場に合わせる合わさない関係の特殊な形としての近代性)も捨象してしまう
(例えば、鬱陶しい人間関係や慣習を受容しない事が、セーフティネットレベルの繋がりはじめ、個々の損得超えて維持されてきた何らかの資産の喪失をも意味する的な枠組みの上に、
グローバリズムなり便利さなりを置く功罪構造の持ち出しで満足するなどもなくなる)、

場の本質の推移に合わせて表層形が変転する論理や歴史にしか興味ない(場の表層に合わせてるか場の本質に合わせてるかの二択を、
さらには、個別性が根拠になる局面での同種の他との共通要素捨象による個別性検討の選択を、内在させてる)上の態度は、脱近代でもあるわけです。



また、対格差の例で言うなら、局面と着目無視の不一致Aから同Bへの差し替え圧力
(場に合わせるから場に合わさないへの、かつ、外在場の実態主義から内在場の実態主義への振り替えでしかなく、
したがって、場の本質の保障とは関係ない権利観や個性尊重観のごり押し)になりがちな対差別と同様に、

まず、場の疑似でない個別性と整合してる(整合してない操作を、特に自由平等や絶対化相対化の名の下に、為してない)との意味で、
非対等性に過不足がない状態を修正像(受容に値すると見なす状態)とする、


加えて、受容に値するのは、帰属関係に修正余地がないの意であり、内外境界意味する有限の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性、これらのみから成ってる現象、
つまり、有限性が代替不可能化されてる事態(例えば、先の実存に落とし込んだ自我文化間や無意識意識間の関係、
また例えば、場の本質の保障を介して管理者立場とプレーヤー立場はじめ諸々が繋がる秩序)のみとする、


という共通認識が、疑似問題化(この場合、表層形への拘り)や疑似解決から主題を解放するのに必要なので、上の態度が反映された観点の標準化を目指しましょう。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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