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2170文字、なぜ形骸個性での多様性に疑問を持たない人がいるのか、および、なぜ自己責任と社会責任の二択に疑問を持たない人がいるのかについて
2024-9-006
表層形の多様性のみを問題にしてる多様性確保は、個別性の取り違え最小化(対人で言うと、代替不可能な内外事情にしか応じない実存)を条件にしていないので、
存在するのと引き換えでない要素まで存在に帰属させてる状態での個別性立脚、
ひいては、帰属操作(修正余地がなく受容に値する帰属関係よりも先立たせてるものがある状態)や、
存在悪用(存在尊重にかこつけた帰属操作なり、奪われる立場発生の正当化なり)の保障です。
にもかかわらず、さらには、存在尊重が形骸化してない類の多様性確保(対人で言うと、属性で肯定否定されるのではなく、
あらゆる属性が、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を、ひいては、理想に対する割り引きが最小となる現実を生きてるかどうかで肯定否定される世界、
したがって、取り違えを最小化させた有限性形態でありさえすれば良い世界に寄せる働きかけ)の妨害になりさえするのに、
支持する人(例えば、獲得対象が可能性の場合は帰属関係を操作した不当獲得でも構わないという立場の人)がいるのは、
帰属修正を知性倫理美意識に先立たせてない(帰属修正余地のなさの達成をそれらの実質としてない)からであり
(取り違えを最小化させた理想に対する割り引きが最小となる現実は、抽象化具体化の不十分さ解消状態なので、取り違えが最小な内外性質に帰属がある現象と言えて、
例えば、善人悪人という属性は現状、代替不可能な内外事情にしか応じない実存、
抽象化具体化の不十分さ解消状態でもあるこれを生きてるかどうかと重ならない為、この属性を根拠にした評価は帰属修正が先立ってない)、
個別性が根拠になる局面で、個別性の内実確からしさ(修正余地のなさ具合)を問わない内実不問が保存されてしまう二択枠組みである、
個別性捨象と個別性実態立脚から成る二択パラダイムに閉じこもってる(欧米文系の権威を、
あるいは、同種の他との共通要素捨象を要求しない既存の文系教育を、妄信してるだけでこうなる)からです。
表層の汚れを拭って露呈させただけの内実確からしさ不問なものを根拠にしてるのなら、それが内面世界であれ自国社会であれ国際社会であれ、
あるいは、市場であれ民主制であれ、具体化精度不足を意味する個別性実態立脚なので、
実態主義のままこれらのどれかに現実有り様の責任を帰するのは、抽象化具体化が不十分な状態はそれが何であるかによらず修正余地がある、との理解の不在からくる冤罪的非難であり、
これ自体(理解は対象に関して持ってる、この条件においてはこうなるといった抽象具体関係構造の像)が修正余地のある帰属です
(この意味で、責任の所在に関する個人と社会の二択的発想も、資本主義への具体化精度不足が修正点でない批判的態度も同レベルです)。
対現実の論点を履き違える人(および、履き違えの弊害、特に、主体やその集積に代替不可能な内外事情にしか応じない主体像以上を求めたり、その主体像を求めないでいる解決像、
言い換えると、先に見た存在悪用が許容されてる世界を支持してるも同然な解決像が、高い知性倫理美意識の産物であるかのように扱われる事態)が減るよう、
個別性が根拠になる局面で同種の他との共通要素捨象に可能なだけさらしてない個別性を根拠にしてる産物に対して、
知性倫理美意識の権威による発信であろうがなかろうが、文系的な論理性の欠如として扱い、
先の二択に陥る事なく、さらし具合の不十分さを修正余地として扱う能力や姿勢が育つ教育内容に変えましょう。
情報や能力や可能性の獲得が、有限者である自身についてより確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小化してる証拠である、代替不可能な内外事情にしか応じない実存有り様と整合してない場合、
その人の通用領域の設定は確からしいものではないのに、目先のできるできないに着目させ、
文系的な論理性の欠如を、ひいては、安易な個別性設定を意味するそのような生を強いてる、
つまり、その実存を獲得作業に先立たさせない安易さのせいで先に見た存在悪用な生に追い込み、帰属操作な獲得の時代を保存し続けてるのがこれまでの教育と言えます。
また、優勢劣勢有り様が肥大化してない状態を維持してる、という意味での健全性を知性倫理美意識が働いた結果に持たせ、
知性倫理美意識が負わせるに値しないものの生まれる現場となるのを防ぐには、
場の取り違え最小な個別性に即した割り振りへの支持の意味でのフェアを、獲得喪失に先立たせてる必要があります。
その実存(抽象化具体化の不十分さ解消によって、仮説でしかない自身の個別性に関する仮説改善を上限化させてる内容)はこの意味でのフェアを内在場外在場に展開してるのと等しい為、
議論はじめ他者に何らかの影響を与え得る状況を、自身にとって都合の悪いもの(アスリートの活躍に対する視聴側のような直接的とは言えない関係込み)に対し矮小化を図るなどの、
優勢劣勢有り様を操作する機会にしてる振る舞い、および、それによって歪められたポジションに関する責任が、
教育にはなく、振る舞った者のみにあると言えるのは、教育がその実存を獲得作業に先立たさせてる場合だけである
(もちろん、そうでない場合でも、フェアの獲得が自力で可能な以上、教育に全責任があるとも言えない)と解しましょう。
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![欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/20187017/profile_f329feb0d2c5830ec2986250a587faca.jpg?width=600&crop=1:1,smart)