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5402文字、哲学に接する際に気をつけるべき点について、文系事象を近代性による矮小化から解放するのに必要な対教育や対学問に触れつつ

2023-3-005

余裕がない局面では成立自体を重視する、余裕がある局面では成立の内実確からしさを重視する(その分、成立しているいないという表層形自体は軽視される)、
という推移構造を、日常性と哲学の関係が余裕あってなお持ってないのなら、その関係は受容に値しない。

(受容に値するとは、帰属関係に修正余地がないの意であり、内外境界意味する有限の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性、これらのみから成ってる現象の事であって、

局面に即してない場合、外在場の性質把握が上の運動性を阻害なく取り込んだ結果ではない為、受容に値する為の条件を満たしてない。)


以上(に加えて、日常性と哲学の関係にその推移構造を持たせる事自体も哲学実践である件)を認めるとして、
ここでの日常性を、文系事象が近代性によって矮小化されてる事態と解したケースでは、
既存の教育が日本に限らず近代性を体現してる以上、余裕があるという事態が、

自身の知性や倫理や美意識の働き(受容に値する状態へと持ってく働き)を、
既存の教育環境や既存の教育と整合的な権威の存する環境にさらされながらも、近代性によって矮小化された理解観や論理観から、守り切れるだけの高通用性を指す事になる為、

文系事象を近代性から解放するレベルで哲学を実践する資格を有するのは、教育のせいでかなり稀有な事態になってると見るべきです。



ところで、ある文系事象の実態を、その実態が受容に値する為の条件を満たしつつ構成されているのかいないのかに関係なく、実態である事をもって受容強いてる形を実態主義と呼ぶとして、

市場や民主制は実態主義ですし、方法的懐疑から近代が始まってる事実で分かるように近代のベースは厳格さ持つ実態主義
(通用領域の広狭と確からしさとの相関を表層次元では徹底させながら、自我の内実に対してはそれを問うてない、という形をしてる点から、

その相関の、自身に対する限定作用である次元設定への言及を始点、および、時代のベースとする必要が想像される)と言えます。


一方で、近代科学(数学を用いた自然の説明)の成功から、
個別性が根拠になる局面(文系的局面)への、林檎Aも林檎Bも林檎は林檎だ的処理である、同種の他との差異要素捨象(個別性捨象)の持ち込み圧力が、
常に存在してもいます

(局面と捨象対象との不整合は、受容に値する為の条件を満たしてない事を意味してる、
との理解をもって、理解観や論理観が理系特化になるのを防ぐ必要が想像される)。

例えば、資本主義は実態重視の下での不当合理(数理的洗練や文化差異縮減)、
共産主義は実態軽視の下での不当合理(局面の個別性を軽視する通念的理性や、フェアアンフェアに対して無区別的な救済観なり連帯観なり)と見なせますから、

文系事象を近代性から解放する哲学は当然、そうした実態主義や不当合理といった近代性によって矮小化されてる経済事象(概念込み)も解放対象であるのに、
教育等によって解放試みが阻害されてる形です。



対格差の例で言うなら、局面と着目無視の不一致Aから同Bへの差し替え圧力になりがちな対差別と同様に、
まず、修正像(受容に値すると見なす状態)とは、場と整合してるという意味で非対等性に過不足がない状態である、との理解を共通認識化する必要があるにもかかわらず、

表層形断罪を林檎が数えれる的次元でなく数が数えれる的次元で防がせる働きは持たない一方で、
権威を付与する権能はしっかりと発揮する既存の教育が、その共通認識化にとって阻害的な環境を齎してるわけです。

(実際、教育が、通用の行き渡ってる状態を、
個別性が根拠にならない局面では同種の他との差異要素捨象を用いて、個別性が根拠になる局面では同共通要素捨象を用いて、
確保できるよう導く働きとして機能してたならば防がれてるはずの、文系的局面における論理の有り様、

つまり、論理重視が、不当な手続きの規範化の下での表層形断罪に陥ってたり、都合の良い表層形を受容させる為の粉飾に成り下がってたりと、
論理の結果でなく論理の妥当性を問題にするという、表層形よりも内実を先立たせてる有り様に繋がってない状況、

および、論理と感情の対立構図のような素朴な図式を小学生以降も持ち続けたり、
不当合理への批判にかこつけて、Aが存在するのと引き換えでない要素込みで存在の名の下にAの保障を強いる実態主義を知的権威付して繰り返したり、
こうした論理軽視が含まれてる状況は、常態化してるわけで、

非対等性も理念も、文系事象の有り様は、後者捨象を用いた抽象化具体化の十分不十分をもって評価する、
この意味で表層形有り様に振り回されない人を育てた上で社会に送り出す責任を、教育に見出しましょう。)



哲学実践への経済条件による割り引き現象の例で言うなら、
哲学を学ぶ事は現状、近代性によって矮小化されてる哲学(理想現実や有無や自他や主語述語といった二極に対し、
拮抗そのまま取り出すだけ系含む実態主義、文系的局面でもそのまままとめ上げて扱う不当合理)を、
近代性によって矮小化されてる教育(理解観や論理観)介して受容する、という内容にならざるを得ませんから、

教育経た哲学実践は受容に熱心であるほど、近代性によって矮小化されてる哲学の再生産、ひいては、近代性の弊害への加担
(近代性によって生み出される受容に値しないものを自他に負わせる生)にしかなりませんし、

教育経ない哲学実践については、知性や倫理や美意識の働きに対する割り引きを近代性によるものよりも小さくできてないなら、
教育経た方が受容に値しないものを生み出す程度は増しなわけで、

これらの点や脱近代の方法を押さえれてない段階で為された、現実はこうだから哲学をするにはこのようにした方が良いとの理解に従うのは、実態主義の域を出ません。



ここで、近代性を、場に合わせる合わさないの二択が、先の想像された必要の不在から、
実態主義と不当合理の二択しかない地平へと展開されたものと捉えるとして、

脱近代は単純には、場に合わせる合わさないの二択を、場に合わせるのは前提で場の表層に合わせるか場の本質に合わせるか
(合わせた結果、場の表層と合ってるパターンも合ってないパターンもあるので、
場を荒らす荒らさないは肯定否定の根拠にならない)の二択へと、刷新すれば良いだけと思われます。

この場合、対教育での脱近代は、
既存の教育でも小学生から期待できる、自己の主観とそれとは異なる他者の主観、との想定を踏まえた(一方を他方に包含させない)、差異要素が捨象された地平で為される処理展開という方向とは逆の、


対象Aの個別性はこれだろうという仮説に対する、同種の他のBにも言えてしまった場合の仮説の修正への、
各々の内在事情外在事情による割り引きを最小化させつつ(つまり、代替不可能な事情から成る有限性形態の反映のみに抑えつつ)の開放性を、
小学生に対してであれ小学生なりに可能な範囲で求めてく側面を、教育に持たせる事が、

特に、日本でもいつからか個性軽視から個性重視へと転換したのだろうけれど、
その開放性要求の不在故に、個別性を受容に値する状態へと持ってくルートを潰してる、
言い換えるなら、場に合わせるから場に合わさないへの、かつ、外在場の実態主義から内在場の実態主義への振り替えでしかない(権利概念にもこの構造が言えるように思われる)、

既存の個性重視の修正、したがって、代替不可能な内外事情にしか応じない実存な生の推奨
(その実存と、能力なり情報なり可能性なりの獲得との整合込み)が、その刷新に相当してると推測します。



また、対文系学問での脱近代(既存教育と整合的な文系知的権威による圧力への対策でもある)は、
自我や欲望や文化や進歩や秩序に対する既存の主張を、以下の理解へと上書きする事が、その刷新に相当してると考えます。


検証精度が低い検証結果のフィードバック(具体化精度確保を欠いたフィードバック)は改悪となる点を踏まえつつ、上で言う実存を、
自我(内在的問題解決スタイル)と文化(外在的問題解決スタイル)の関係、
続けて、そこでの統合産物である注力形式を介した無意識と意識(注力的問題解決)の関係、
これらの落とし込み先にしてる時、自我や欲望の根拠化は実態主義を免れてる。


敵とも味方とも自分とも人以外とも、場を介して繋がりつつ(場と無関係に非対等性を規定したり増減させない、
特に、この観点から自由平等や絶対化相対化の持ち出され方を評価する点を押さえつつ)、
管理者立場とプレーヤー立場との間で、場の疑似でない個別性の尊重を内容とする他方への要求が常に存在し、かつ、それのみが受諾されてる秩序は受容に値する。

(個人の外在場と国の内在場を、国の外在場と国際社会の内在場を同一視する文脈で見たこの秩序観と、
個人から見た自我文化関係とを重ねた上での人格尊重や文化尊重は不当合理を免れてる。)


抽象化具体化が不十分さを解消しつつ(具体化精度を確保してないものの統合なりフィードバックなりは避けつつ)交互反復してる展開物(歴史や論理)は、
(限定理由の確からしさを最大化する事で通用領域狭まる分を補填した、限定前後での確からしさ保存から成る表層形を紡いでく変転であり、)
内在性質と外在性質が疑似でない程それらの統合物である現象は受容に値する、との現象観をそのまま拡張したものなので、

受容に値するしないが論点の歴史にとって、
仮説が検証を経てより確からしくなる的有り様も、言葉の意味合いなりニュアンスなりが時代に合わせて変遷する的有り様も、そういう表層形があり得るというだけ。

逆に、変化不変化の程度自体に意味を持たせてる時点で、受容に値しない歴史を負わせる類の知性や倫理や美意識である事(それらが形骸化してる状態)を意味してる。




注1、

日常性と哲学の関係を、場に合わせる合わさないの表層形反転関係に落とし込んだ上で、それぞれに有意義無意義(繋がりの有無)を割り当てたり、
逆に、日常性やそれを構成してるものを実態主義的に扱う様や、場を介さない繋がり方(友愛や連帯など)と哲学とを結び付けたり、
あるいは、何らかの理屈をもって非対等性を強調(他者を絶対化するなど)したり無化(拮抗状態を抽出するに留まる、拮抗状態に持ち込むなど)したり、


こうした疑似解決を引き起こす疑似問題囚われを防いでくれる(疑似解決を真に受けずに済むようにしてくれる)ものとして、
我々にとっての問題とは、有限性に対する代替不可能化(限定理由の確からしさを最大化する事で通用領域狭まる分を補填した、限定前後での確からしさ保存)だけである、

言い換えるなら、我々が持つ責任とは、対有限性におけるより確からしいものが取って代わる運動性に対する阻害の縮減
(認識を成り立たせてる前提である、通用領域の広狭と確からしさとの相関を、この次元設定で持つ事)だけである

(本文で言及してる実存はこの疑似でない責任を果たしており、そもそも、有限性の代替不可能化を先立たせてない人は、
ここから先は自分に帰属してない、という内外境界の線引きがご都合主義化してる為、責任を語る資格に疑問符が付く)、

との態度があり、


この態度の反映された観点(したがって、実態主義的にであれ不当合理的にであれ、理想現実関係が安易か排安易かを区別しない類の、

もっと言うと、文系的な抽象化具体化の十分不十分を区別しない以上、限定前後で確からしさが保存されてるものを選べない、
通用の行き渡ってる状態を維持したままの表層形変転も選べない為、対文系での論理能力が形骸化してる類の、

知性や倫理や美意識とは決別を果たしてる観点)から、日常性と哲学の関係を捉えた結果が、
場の疑似でない個別性の抽出に局面把握がなってるほど、安易でない理想現実関係Aと同Bの推移構造を言ってる形となる冒頭の主張である、

そう言えるのでないかと考えます。



注2、

共通してるという場(例えば、人間の認識形式の次元)における語り合いの可能化や対立の解消状態をもって、そこに向かうよう推奨する系の主張と、
そこに置かれる事は存在を尊重してない事態を意味すると見なす系の主張との、

理系的普遍通用性に関する対立構図(後者が実態主義なら表層形反転)の場合、
個別性捨象(個別性が根拠になる局面に持ち込むと不当合理)の方が場に合わせる立場になるわけですが、

鬱陶しい人間関係や慣習を受容しない(捨象してしまう)事が、セーフティーネットレベルの繋がりはじめ、個々の損得を超えて維持されてきた何らかの資産の喪失をも意味する的な枠組みの上に、
グローバリズムなり便利さなりが置かれてる功罪構造も、内容的にはその対立構図と大して変わらないわけで、

実態主義と不当合理のどちらが、場に合わせる立場、合わさない立場に相当するかは、文脈上の観点の問題になるかと思われます。
(もちろん、どちらであれ、場の表層に合わせてるか場の本質に合わせてるかという、脱近代な評価軸が、
不在なまま展開される、場の上に立ち上がってるものとの関わりが糾弾され、

例えば、家庭を覆ってる価値観について、小学校等で他のケースを見知った際に、
有限性が代替不可能化された修正像の取り込まれたものへと、話をどれだけ持っていってるかを、小学生に対してすら見る事になります。)





以下、投稿用の短縮版1(1541文字)

余裕がない局面では成立自体を重視する、余裕がある局面では成立の内実確からしさを重視する(その分、成立しているいないという表層形自体は軽視される)、
という推移構造を、日常性と哲学の関係が余裕あってなお持ってないのなら、その関係は受容に値しない。

(受容に値するとは、帰属関係に修正余地がないの意であり、内外境界意味する有限の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性、これらのみから成ってる現象の事であって、
局面に即してない場合、外在場の性質把握が上の運動性を阻害なく取り込んだ結果ではない為、受容に値する為の条件を満たしてない。)


この主張(に加え、日常性と哲学の関係にその推移構造を持たせる事自体も哲学実践である件)を認め、
かつ、日常性を文系事象が近代性によって矮小化されてる事態、近代性を実態主義と不当合理の二択縛り、と解すると、
近代性を乗り越えた哲学(文系事象を近代性から解放する哲学)の不在から、冒頭の推移構造は無い事になってしまいます。

実際、日常性と哲学の関係を、場に合わせる合わさないの表層形反転関係に落とし込んだ上で、それぞれに有意義無意義(繋がりの有無)を割り当てたり、
逆に、日常性やそれを構成してるものを実態主義的に扱う様や、場を介さない繋がり方(友愛や連帯など)と、哲学とを結び付けたり、
あるいは、何らかの理屈をもって非対等性を強調(他者を絶対化するなど)したり無化(拮抗状態を抽出するに留まる、拮抗状態に持ち込むなど)したり、

こうしたここ百年の実態主義(表層の汚れを拭っただけの内実不問な何かの受容を強いる様)は今でも権威が認められてますし、
論理学ベースの哲学も、個別性が根拠になる局面で個別性を捨象する不当合理を改めないままでいます。

共産主義系もそもそも、資本主義と共産主義が、実態主義である市場に関する、
実態重視の下での不当合理(数理的洗練や文化差異縮減)、実態軽視の下での不当合理(局面の個別性を軽視する通念的理性や、フェアアンフェアに対して無区別的な救済観なり連帯観なり)、
という関係と見なせます(経済事象も近代性から解放されてない)。


もちろん、既存教育も近代性を背景にしてるので、哲学を学ぶ事は現状、近代性によって矮小化されてる哲学を同教育(特に、文系での理解や論理の不当合理化)介して受容する、という内容にならざるを得ませんから、

教育経た哲学実践は受容に熱心であるほど、近代性によって矮小化されてる哲学の再生産、ひいては、近代性の弊害への加担
(近代性によって生み出される受容に値しないものを、自他に負わせる生)にしかなりませんし、

教育経ない哲学実践については、知性や倫理や美意識の働き(受容に値する状態、有限性を代替不可能化させた状態へと持ってく働き)に対する割り引きを、
近代性によるものよりも小さくできてないのなら、教育経た方が増しなわけで、

これらの点や脱近代の方法を押さえれていない段階で為された、現実はこうだから哲学をするにはこのようにした方が良いとの理解に従うのは、実態主義の域を出ません。


ちなみに、冒頭の主張は、局面把握が場の疑似でない個別性の抽出(同種の他との共通要素捨象が必要)に近いほど、場の本質に合わせてるAと同Bの推移構造を意味する為、
実態主義と不当合理を、場に合わせる合わさないの二択の特殊系と捉えれば、捨象像次第で、

場に合わせる合わさないの二択から、場に合わせるのは前提で場の表層に合わせるか場の本質に合わせるかの二択への刷新という脱近代としての、日常性と哲学の関係を言ってる事になる
(つまり、同種の他との差異要素捨象に特化させてる既存の教育に対する修正次第で哲学の、ひいては、文系事象の近代性からの解放も可能)と考えます。

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