才能であれ対社会であれ、何かを確からしくする際の検討する能力の育成が不十分(外からの働きかけも検討通す形では生かされない)な現行教育について
2020-12-004
現行教育で問題なのは、文系域での検討能力の向上をむしろ押さえつけてるところがある為、その分、内在面にせよ対外在にせよ確からしくしようとする試みがいらぬ制約を負ってしまう、
標準はこれですと提示されたものに寄せる程度の話で事実上終わってしまう(外からの働きかけも検討通した形では生かし切れない)点ではないかと疑います。
日本に限らず、近代パラダイム(分離で得られる洗練への過大評価、同種の他との差異要素の捨象アプローチへの特化)に未だ縛られてる世界標準の知性や倫理が教育の前提になってる限りは、
その流れで得られる知的権威にもパラダイム由来の内実不問傾向が疑えますから、当然、提示される規準も十分な検討の産物とは言えないだろうに、
提示を位置付けし直したり乗り越える能力が奪われてる、少なくとも、いらぬ上限を与えられてる形です。
(できるだけの事したけど駄目だった的な確定性の高さも、確定性の低いケースと同じ扱いを受けるかのごとき地平では、
各場、自己内面であれ所属社会であれ、の個性をそれがそれである限り引き受けざる得ない要素のみから成るものとしては捉える事ができないと思われ、文系域での検討能力へのその近代系制約の帰結として、
主張等の通用性判定に際し、走力の差異が問われてる状況で家柄なりそれ以外の差異が気にされる的に、着目無視の設定が場の個性から乖離するほど、つまり、差異への大騒ぎや見て見ぬ振りが生じてるほど近付くだろう、
通用領域が限定的なものを普遍通用的と勘違いした結果の、肯定否定がポジショントークや冤罪的非難にしかならない事態、
場の個性が尊重されてない類の多様性確保によって得られるものを、不当な不利益回避や利得とは捉えられない倫理状態、誤帰属とは捉えられない知性状態においては保障まで図られかねないその事態が、想像されます。)
実際、現世界でいらぬ不幸が生まれる直接的原因は財産権や主権や人権の使われ方(少なくとも、帰属の操作に相当するものの除去追求を反映した形とは言えない)と思われるのに、
既存権利観(各場の本質に即して割り振られた損得や役回りを支持してるしてない、という意味でのフェアアンフェアを区別しない類の保障観)は、
悪用される隙を塞いでない状態のままなのに疑問も持たれず(対権利にしても、帰属の所在の振り替えが試みられるだけな為、大枠については維持される類のもの)まかり通ってるわけです。
通用性の低い根拠を高いかのように扱ってきた、つまり、知的説得力があるかのように見せかけきたも同然なのに、実際それが(理系域での実績を背景に)まかり通ってきたこれまでの(文系域の)知的権威の有り様は、
通用性低い根拠など無数にあり得る以上、その中の一つを大した理由なく選んで、それにより立ち上がる体系における損得や役回りの割り振りを(受容するだけの内実などないのに)世界に押し付けてる形と言える為、
近代パラダイム(場の個性と体系との合致が文系域では要請されてるとは言えず、実力や余裕がないという場の性質における体系である次善の策のレベルに、場が変化しようと留まり、合致に向かわないのもそうした反映)
を背景としてる知的権威が文系域での何らかの理不尽を糾弾してたところで、Aという理不尽は駄目だがBという理不尽はOKだと言ってるだけの、都合の良し悪しの振り替え(既得権益の確保作用)に過ぎず、
そんな彼らの言動含め、近代パラダイムの文系産物に否定対象を見出さない人全てが、各場の個性と紐付けられた(受容に値する確からしさ持った)損失や損な役回りしか生じない秩序へと向かう上でのネックなわけです。
そして、教育する立場の主体はこの状況とその弊害であるいらぬ不幸を再生産してると言えて、彼らが自身についてのその事実と向き合ってくれるならば、教育を近代から解放してくれると期待しますが、
表層反転をもって解決できたと見なしてしまうセンスも、近代パラダイムの範疇に含まれるとすると、過去に対し表層反転するだけでは近代を脱した事にはなりませんから、
代替不可能な固有性を埋没させる枠組み(近代パラダイム)に知性や倫理を頼らせない(知性と倫理を、代替不可能要素の特定と代替可能要素への代替不可能扱い忌避、そう規定してる)方向へと教育は修正されるべきで、
自分達がまず、主題よりもそれが置かれる場の個性への尊重を先立たせるスタイルでもって、否定するという主題を場(資質や環境、内面や局面)の代替不可能な固有性
(その取り出しには同種の他との共通要素の捨象アプローチが必須)に合わせて具体化する能力を備える必要があるし、
対象に関する抽象具体の関係構造を確立できた感に過ぎない理解作用に、理系域では圧倒的なものの文系域では捨象設定の偏向に由来するいらぬ制約
(その人の注力傾向、及び、脳へのインストールや生活上の枠組み受容に関する、言い換えると、対象の置かれる認識場が持つ偏り、ひいては、認識場が対象に負わせる加工に関する根拠の確からしさ向上への、
つまり、資質や環境の代替不可能な固有性取り出しの精度への制約も含む)
を与えてくる近代パラダイム、という否定対象のイメージを押さえる必要もある、
との理解を持ってもらうよう、先の事実への向き合い要請と共に働きかけていくべきかと思います。