文系域では現状、対象理解の精度がある水準で止まってしまうので、理解力をできるだけ改善しておいた上での対外在とすべく、それに必要と思われる事について
20-12-001
Aさんのある行動をたまたま目にして、それまでのイメージなり行動原理の把握内容が更新されたという程度の処理にも、抽象化や具体化条件割り出しの精度の影響はあるはずで、
その精度問題(捨象設定の問題に帰着)は理系的主題や自己の対内在にも重なると考えます。
そもそも、Aさん的には置かれてる状況に反応したという程度の話でも、
使われ方(使われる使われない)の反映によって言葉の意味合いやニュアンスが場との齟齬回避的に変遷してくような、あるいは、実証結果のフィードバックによって仮説が確からしくなってくような、
抽象具体間の行き来(歴史性)が自身について生じてると見るべきで、
Aさんがその精度問題を自身の生の焦点としてれば、精度最大化の下での表層形かどうか(内面や局面などの、場の本質に即して体系を立ち上げてるかどうか)で自身について肯定否定する事情から、
保守革新の権益対立枠組みのような(変遷作用や肯定否定作用の)矮小化を負わずに済む為、Aさんとその精度問題との関係はAさんに関する重要な説明になるわけです。
例えば、走力の差異が問われてる状況で家柄の差異を気にしてれば、表層的要素に振り回されてる形、表層的要素を本質的要素かのように扱う事によって取り出されるべきものを埋没させてる形
(知性や倫理が、つまり、代替不可能要素の特定や代替可能要素への代替不可能扱い忌避が上手く働いてない事態)であり、振り回されが偶々でない場合は、その人のイメージや行動原理の把握内容に含まれるとして、
そこら辺を捉えようにも、捉える側までその局面では何に着目すべきかを取り違えてたら精度が下がるわけで、
局面が取り上げを要請してる確からしさ差と自身の着目無視とを合致させた上での振る舞いに徹してる(差異やダメージに対し大騒ぎも見て見ぬ振りもしてない)とは言えない人の、
例えば、場で起きてる事態(取り出されるべきものと実際との関係)に責任ある立場の者への肯定否定及びそれを踏まえた対応の精度が低い一方で、対自己では十分高いなどという楽観には無理があるでしょう。
しかし、捨象設定や平等自由等の解釈は、そうした振る舞いに徹してる姿勢(差異や情報への反応の方針)の拡張と言えるような内容ではなく、
近代以来のパラダイム(場とその上に立ち上がってるものの乖離具合のような、内実の確からしさへの不問が可能)の方と整合的な内容が、
未だ支配的(それでも、捨象設定の性質上、理系域での対象理解の精度が高いとの触れ込みには実質が十分期待できる)なので、
(例えば、場の本質に即して割り振られた損得や役回りを支持してるしてない、という意味でのフェアアンフェアを区別しない類の、保障を当然としたり、寛容なり多様性を謳うセンスも、
1を10に増やしたり分ける事による1の相対化で解決図るような、場に合わさない絶対性と場にその表層的要素込みで合わせる相対性の振り子の外に出ない、場の本質にのみ合わせる方向には向かわないセンスも、
各場の個性の尊重が先立ってないなら、対象への尊重や妥当扱いにしろ、確定扱い程度への理想現実バランスさせた強弱付けにしろ、してるつもりなだけの形骸で、
アンフェアな願いを叶えてあげるのを良しとするような世界観の投影と実質変わらない、
との理解を押さえてない結果の、
林檎は数えられるけど蜜柑はできないのに数を数えるが十全扱い的状態に留まって、抽象具体の必要価値対等に、ひいては、抽象化具体化の精度の論点化に至れてないパターンでないかと疑います)
局面要請と捨象設定(同種の他との差異要素捨象次元か共通要素捨象次元かの)選択を合致させる、平等対応や囚われてない有り様の中身としてその徹してる姿勢を扱う、そうした知性や倫理の自覚的刷新が、
その下での、特定時空性の個々具体差異を踏まえ一旦抽象次元に遡り、その抽象物が置かれる場の性質における代替利かない部分だけを具体化条件として取り出し、
付し直したものからのずれ部分を否定対象として見出しつつ、自身の資質や環境の代替不可能な要素を具体化条件として否定反応を具体化する有り様を、対常識や対パラダイムに繋げる自己解放が、
自己の対内在(内在の通用性をできるだけ改善しておいた上での対外在)にはまず必要でしょう。
(通用領域の広狭と確からしさとの相関、より確からしいものが取って代わる運動性、内外境界の不可避性、それらのみで構成された根拠をもって位置付けや扱いを定める作業、及び、定められて在る自己が、
形骸性を低減させ実質としてもそうなってく上での本筋でもあるはずです。)
化学反応の円環連鎖の保存とその条件、という場に通用させる試みと場の性質との関係を背景に、生という主題を環境において解決できる形に具体化させたものとしての体が、
先に見た歴史性(抽象と具体の行き来)によってその問題設定作用に確からしさと偏りを蓄積した結果、我々の場合は次元設定(着目無視の設定)自在性(としての人間性)を備えるに至り、
それを基にした自我や文化という個人次元や社会次元での問題解決スタイルも立ち上がってる、そんな感じの事情なのだろうけれど、
そうした形式面を生かし切る個人や社会とする為にも、使ってるつもりで振り回されてきた(場が決めるところの表層的要素に対し本質的要素かのように過剰反応してきた)形骸的自由状態なこれまで
(現世界の姿を直接的間接的に形作ったこれまで為されてきた仕事の不十分さ)を素直に認める事で既得権益関連の帰属をほぐしつつ、
そもそも、より確からしいものが取って代わる運動性を踏まえて場に通用させる営みもあるのだし、
その運動性を阻害する形(演出的方法などで取り出そうとしてたり取り出せてるつもりでも、表層的要素に囚われてる限り、埋没化による発現阻害や、ドーピングによる優勝のような分捕りの側面持つのは免れない)で、
先に見た歴史性が持つ構造の観点から言い換えると、言わば、条件設定なり運用管理に不備のある実験結果(精度の低い具体化)をそうと気付かずフィードバック(精度の低い抽象化)させてる的形で、
自我や文化が持たれてるなら、
その運動性に安易に与えられてきた枠組み(限定化作用自体)をその運動性の反映形とすべく(受け入れたり受け入れてもらうにあたって割り振りが持ってる原理を、秩序の根拠になってる場の性質を、反映の帰結とすべく)、
知性や倫理の形で次元設定自在性を注ぎ込む(代替不可能な要素を埋没させないように知性や倫理を働かせる)事により阻害してないと言える形へと持ってく
(脳への枠組みインストールを、資質や環境の代替不可能な要素から成る根拠に紐付けられてるものや形態に限る事で、
大して検討しない受容や大した理由のない拒絶など、受動能動の形骸性を抑えるなど含む)べきとの理解と、
持っていってる程度なり取り組みとの距離が評価される枠組みを、我々は実質面として持つべきでないかと考えます。