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3598文字、政治の矮小化に対する責任は誰にあるのかについて(哲学やその刷新試みが形骸化する原因としてのプラトン問題やデカルト問題にも触れて)

2024-6-004

政治が矮小化する原因にはまず、内実の確からしさ差異をもって変化不変化を評価しない態度
(内実の確からしさ差異に関係なく常に表層形をもって肯定否定する有り様の一具体形であり、

内実の確からしさが上限である、かつ、内実の確からしさを損なわない表層形が選ばれてるなら、
表層形の望ましさ具合とは関係なくその表層形を肯定する方針の不在)があると思います。


この場合の内実確からしさ差異は、理想を割り引く程度を最小にしてる現実を点として紡いでる歴史
(限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの上限化の意味での抽象化具体化不十分さ解消の下で、

抽象化具体化交互反復が、仮説と検証の関係のような確からしさ向上系であれ、
言葉の意味合いやニュアンスの変遷のような確からしさ非向上系であれ、展開されてる)かどうかなので、

そのような歴史かどうかと関係なく変化不変化を肯定否定する人達(理想を割り引いたものとしての現実という理想現実関係についての指摘が、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存をもって理想と対峙するなどの、理想を割り引く程度を最小にする現実の推奨に繋がらなかった、

というプラトン問題を既存の哲学の修正点としなかった幾多の哲学者にも責任あり)が政治を矮小化させてきたと考えましょう。
(場の取り違えを最小にした個別性に合わせるのを具体化精度の上限化とし、
場の性質にその疑似化込みで合わせたり、場に合わさなかったりを反応の過不足として扱いましょう。)



また、政治が矮小化する原因として他にも、帰属修正(受容に値する状態の達成)としての強制力と、帰属操作としての強制力との、
分別失敗(内実への視点の不全)からくる対権力の論点取り違えがあると思います。

代替不可能な内外事情にしか応じない主体(内外事情の取り違えを同種の他との共通要素捨象によって最小化し、
存在するのと引き換えでない要素の存在への帰属を修正してる主体)だけから成る社会であれば、その社会の持つ性質は修正余地がなく、

場の修正余地のない性質を損なわないように場全体の有り様を整合させる(他の場における整合作用の被越境を防いだり、
場の性質変化への反応の過不足を抑えたりを含む)責任を場の管理者(個々人の認識場でも同じ)は負っており、

先の主体における、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小にした場合の有限性(内外境界発生)という側面を、
できないや失敗といった有限性に修正余地なさを持たせる処理と捉えれば、管理者の介入限界は、

上の責任を内容とする主題についての具体化条件が、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像である時に、
受容に値するもの(介入が帰属操作でないと言える為の条件を満たしてる)となる為、


結局、国民と国家の関係であれ、国家等と国際機関の関係であれ、対権力の中身が、
両主体に対する代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の体現要求でないなら論点ズレであり、
政治が表層次元(表層形のみに反応する短絡さ)に留まる原因となるわけです。

ちなみに、言葉における取りこぼし不可避性を暴力と見なすなどの拡張的な権力論においても構造は同じで、
この例で言うと、同主体像の下での問題解決の集積収斂として生じてる場合の文化有り様からの乖離部分を修正余地に見なしつつ、
同主体像をもって対乖離部分や文化(外在的な問題解決スタイル)実践が為されてる分には暴力は生じてないと解する内容でないなら、論点ズレでないかと思います。



また、政治が矮小化する原因として、解決状態の履き違えによる社会課題への取り組み方の取り違えもあると考えます。
社会課題を解消対象と見てしまうと、言わば、いじめが生じてなければ人間関係に問題状態を見ようとしない的な雑で小手先な関わり方となってしまいます。

平和の名の下での泣き寝入り強要のような事態をスルーしない(取り上げない搾取をつくらない)為には、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存(帰属操作的な獲得の放棄)を根拠とする行為の集積から成る秩序

(内在場と外在場の取り違え最小な個別性への帰属しか承知しない態度をもって、先の紡いでる歴史を達成するその実存を生きる以上の責任を、
言い換えると、修正余地のあるものの受容を外界に強いないよう自身の有限性に修正余地なさを持たせるべく、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小化する以上の責任を、


個人が負う事はなく、自他の有限性に対し自身にとっての都合の良し悪しによらずこの時に負う責任が要求される多様性とそうでない多様性、
つまり、否定や保留すらこれに依拠してる為に第一原理と言える、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関について、

これにしか立脚してない内容の多様性とこの相関の視点を自身に向けない者も含める以上、
この相関に正当性を依拠しながら通用性を表層形差異のカバー具合に限ってる点で限定通用的と言える多様性、

この両者を分別し、多様性や平等の名の下の泣き寝入り強要にその短絡さ故に繋がる後者に与さない事で、
幸不幸等の表層形によらず修正余地なさが受容条件になってる世界)を、表層形の望ましさ程度に関係なく解決状態とする必要があるので、

対社会課題の本筋はあくまでその実存を生きる人(獲得喪失を、情報や能力や可能性も対象である為、
自身の帰属操作的獲得には許容的なのに他人なり国家なり他の主体の帰属操作的獲得を非難する原理不在な振る舞いに陥らないよう、いらぬ特化による通用性低減をケアしない既存の教育論と決別してでも、
その実存と整合させる人)の割合を増やす事であって、解消自体は次善の策(余裕があってなお採用すると理想現実関係が、チキンレースで即離脱的安易さに陥る)と捉えましょう。



ところで、事実と嘘は、特定の角度によらず通用する普遍通用的な前者とそうでない限定通用的な後者、という関係なので、
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関(これへの自覚なしに、したがって、これへの立脚の限定具合を論点としないまま前提への疑念について語る理論は、

方法的懐疑においてこれに依拠しながら始点としなかった、というデカルト問題の影響と近代以降は解せる)から、
次善の策を要請するような局面事情がないのなら前者が選ばれる事になりますが、

嘘や演出は加工であり、認識現象も存在現象も、内在性質と外在性質の統合結果の意味で加工物
(ある主体の振る舞いを認識した場合、行動原理とその具体化条件から成る内外性質統合物は、
固有の経験によるバイアス持つ認識場の個別性を外在性質とした時の内在性質に相当する)である為、


認識者が加工物に否定的という自己矛盾の様相を回避するなら、対現象の論点を内外性質の取り違え最小化とする枠組みの採用、
および、事実と嘘の関係(いかに前者に近づくかという問題意識)に重ねられてきた客観主観関係を、

個別性が根拠にならない局面では同種の他との差異要素捨象が、個別性が根拠になる局面では同種の他との共通要素捨象(個別性の取り違え抑制)が要請されるという、
確からしさ確保の方法の違いとして捉え直す枠組みの採用が必要と思われます。


これに対し、他可能性に通用領域を見て、事実を閉じてるもの、嘘を開かれたものと見なす方向性
(表現で言うと、存在性の演出的発現のフィルターを担う表現者という関係を、
存在性を割り引く程度を最小にする実存という枠組みに落とし込むのとは異なる、したがって、先に見たプラトン問題の美学バージョンと見なせる方向性)は、

個別性の疑似化を許容する以上、外在場の性質把握に関して精度を上限化させてない
(させてるつもりなら、林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的な原理不在が意味される)為、


外在場に自身を通用させ続けるという存在課題を生命という形式で展開する生に遡る事で捨象される類の問題に囚われてる
(少なくとも、場の性質にその疑似化込みで合わせたり、場に合わさなかったりの意味での反応の過不足を課してる分だけ、生にいらぬ割り引きを与えてる、

例えば、漫然な生を非難しながら場から受ける扱いに関する、ひいては、有と無の間の境界線に関する漠然さに許容的なせいで話が疑似問題化してる、
それこそ、今存在してるという事実の言い換えである生き延びの達成がドーピングによる金メダル的な茶番選抜に留まってる茶番な生か、

場に合わさないという反応故に法や道徳等と絡めるなどしたこの事態を、選抜原理の疑似化部分にのみ合わさない修正像もろとも否定する過剰否定の、どちらかを真に受けてるなど)抽象度不足の証拠であり、
加工物に否定的な認識者と同等な自己矛盾から目をそらしてまで、他可能性確保から成る確からしさ確保を正当化する(政治的主張込み)類のご都合主義と言えるはずです。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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