人類が未だ肥大化した対立に塗れてる(感覚や思考にも混入してる)原因を、文系者が実力不足になる構造に見た、事態の修正に必要な理解や方法論について(7000字)
2021-2-002
1管理する側される側の例
例えば、管理被管理関係は内面としても自国社会としても国際社会としても、場における秩序の観点から同じ原理をもって語る事ができるのに、
そうしないせいで、主権人権の対立構図のような肥大した対立の枠組み
(プレイヤーと大会運営の関係で済むところを、
少なくとも、その場がその場である限りその場にとっては持たざるを得ない性質として場が要請してるものを取り出し、損なわないように帰結まで導く、という観点を埋没させ、
管理側被管理側それぞれに求められ、相手側に要求できる事がある、という対等的な理解が仮にあっても、
都合を上のような帰結よりも優先する帰属操作の混入を許す形となる事で、話を形骸化させてきた枠組み)
に未だ頼ってるのだと思われます。
つまり、具体形パターンを網羅せず(抽象具体の関係構造を確からしくせず)に理解十分(現実が持つ複雑さに通用してない段階で実力十分)としてる弊害が、
権利の使われ方(実際、場と割り振られとの齟齬を許してきた)のような、大きな不幸も生じ得る場でも見られるわけで、
(抽象と具体を、行き来を前提とした必要価値対等とする事により、
具体形パターン個々への差別的態度の抑制にも、
何ら限定されてない状態の準備を意味する、抽象次元の確からしさ向上、実証実験の精度に相当する、具体化条件の割り出し精度、この両者の論点化を通した割り引きの最小化、つまり、
有限性の不可避性を認めた上での自由の最大化にも開かれると期待)
とはいえ、網羅できて(通用が行き渡ってるものとしての抽象物を用意できて)なくても、新たなパターンの発見可能性に開いておいても、
局面事情(具体化条件)次第では確定的に扱わざるを得ないケースもある為、
結局のところ、理解に関する話というのは、抽象と具体の関係構造を確からしくする運動性の問題に収束すると見て、
その運動性を阻害してる近代枠組み(文系域での場と捨象対象との齟齬を引き起こす)の外に出るのが先、現理解についての判断はその後、そう捉えるべきでしょう。
加えて、ある枠組みが持ってる限界をいくら示しても、
(冒頭の例で言うと、人権を持ち出す際に、フェアアンフェアを区別せず保障する既存の権利観を未だ背景としてる事態は、
主権を盾に突っぱねる、財産権なり国際的な何かでの影響力なりをもって見て見ぬふりさせる等を可能にしてる背景と同根なせいで、
理論的に解決できない状態にある領域を、可能にする努力を怠ってる形と言えるはず)
非を認めない人、より確からしいものが取って代わるべき状態にあると認めない人ほど向き合ってくれる、受け止めてくれる可能性は低いと思われ、
己の都合をフェア(各場に即した損得や役回りの割り振りへの支持)を越えて保障する
(仮説の確からしさ向上に開いてるなら、正確な実証実験の結果が悪くてもフィードバックを避けず向上機会とするはずで、言わばその逆)、
数を数える例で言えば、林檎は数えられるけど蜜柑はできない的状態で、原理をマスターできてるつもりになってたり、余裕の有無によらず十分と判断してる
(具体形の差異パターンの網羅性が、通用領域の広狭と確からしさとの相関の対象にならないような次元設定を組んでる)、
文系域ではむしろそうした人が大勢を占めてる(肥大化した対立に頼る形の枠組みが、弊害を目にする機会の多さにもかかわらず、未だ健在な以上そう見なして良いはず)せいで、
つまり、社会のフェア志向および場が取り上げ要請してる差異の把握精度論点化の傾向が低く、鍋底に穴が開いてる状態であり続けてきた
(対社会の土台に、場の代替不可能な固有性への尊重を意味する捨象傾向がなかった)、
そこの傾向を高める(社会の脱近代に相当)必要性への理解が、知的権威にも教育関係者にもなかった(穴を塞ぐ方向の努力に関心がない評価観による肯定否定に、疑問を持たない空間な)せいで、
修正作用も機能してこなかった、そうも捉えるべきでしょう。
また、帰属(責任の割り振り割り振られ含む)の問題は、
認識成立(存在成立も)の為に基盤として要請してる(それ無しには成り立たないレベルで頼らざるを得ない)、より確からしいものが取って代わる運動性(通用領域の広狭と確からしさとの相関込み)を、
形式としてしか使えてないケース
(何に関しての確からしさを問うかという次元設定、その設定自体に対して確からしさを問うてないせいで、己が持つ次元設定自在性に振り回されてる事態)がある、
という事実にまで遡ると想像します。
次元設定の失敗故の確からしくない帰結が確からしい扱いされてる場合の事態の帰属(要請した側が負うべき部分を負ってると言えるか)を考えると、
次元設定が確からしいものになるよう、特に、認識者が対内在や対外在で代替不可能なものにだけ応じてる状態(有限性の代替不可能化)となるよう、
代替不可能な要素を埋没させない内容(文系的には脱近代)として、知性と倫理を持ち出す事で帰属関係の実質欠如を抑える必要がある、
ここら辺の構造との関連を疑います。
学問が、原理の特定はじめ、いらぬ飛躍の除去(帰属の操作の余地潰し)を体系レベルで任されてる点を踏まえると、
知性や倫理は、いらぬ飛躍が含まれてるのにそうでないかのように見せかける方向で役立てる事もできるところを、
上のような内容として持ち出し、情報の拡大に伴い修正を余儀なくされながらも、いらぬ飛躍がない状態を追求するのが学者の本分であろうとは思いますが、
嘘や演出といった加工の混入それ自体を問題と見るのでなく、加工の程度が局面(場の代替不可能な固有性)に合ってるかどうかの話が先にあって、その中に学問もある、
上のような内容が保持(場との齟齬がない)されながら、見かけは飛躍の保存として役立てられてるケースもある、
そう捉えるべきでないかとも思うので、
場の本質から見て表層的な要素(引き受けざるを得ないものとして扱ってしまうといらぬ飛躍)には取り合わない、という方向性(脱近代の基底)についてはどの立場(学問以外)も合意してる世界が、
仕方なくはないもの(いらぬ飛躍が混入してるなど)を仕方がないもの扱いしてる内容な何かの受容を強要される現世界に、取って代わるべき姿でないかと想像します。
2対規範の例
ところで、不変なもの不動的なものを見出そうとしたり、見出して肯定否定したりは、
より確からしいものが取って代わる運動性(通用領域の広狭と確からしさとの相関込み)が認識や存在を成り立たせるレベルの前提である点、
もしくは、その運動性が自身たるべく、自身の有限化とそのフィードバックを受ける構造を自身たると同時に要請してる点以外で、
そのようなものがあるという理解を意味する場合、
その運動性及び有限性以外に頼る、遡行が留まる有り様故に、その運動性を阻害してる(より確からしいものがある可能性に対し閉じてるのに、自身の理解なり行動は確からしいとしてる)気がします。
例えば、自己の同一性(10秒前のAさんと5秒前のAさんの同一性)のようなものも、
仮説と実証の行き来で見られるような確からしさの向上や、言葉の使われ方(使われる使われない)の反映による意味合いなりニュアンスの変遷(場との齟齬回避の帰結)のような確からしさの確保を、
その内容とする歴史性が実体であって、抽象次元にあるものがたとえ不動に見えても、実際には割り引かれそのフィードバックを受けるものと見なすべきだろうし、
実際の秩序への肯定否定にしても、場の性質(具体化条件に相当)に即して、当然、場の性質変化も追う形で、立ち上がってるかどうかが問題なのであって、
場の性質から乖離してるしてないについて埋没させてる類(抽象化具体化の精度が論点になってれば、変化の遅早という表層事情は論点とならないわけで、
保守革新という対立構図は、感覚や思考に混入し論点ずらしてる疑似枠組みの典型)の秩序批判は、対乖離に有益なケースも有害なケースもあるという意味で信頼性の低い対応と言え、
こうした次元の話に不変性や不動性を持ち出したり想定するのは的外れに思われます。
なので、例えば規範に対し、そこに(見かけの)不動性としての融通の利かなさを見て取るや固さを和らげに行く、といった短絡的反応は、表層形でもって断罪する差別的有り様と、
加えて、抽象化具体化の精度最大化の確保(表層形にとっての実質の確保)という本来の論点を埋没させつつ、
実質のなさの改善とは無関係なのに、実のある対応をしてるつもりなだけの有害で形骸な問題解決観(原理に向かうのでなく見かけに振り回されてる、という意味で知性不全)と見なされても仕方ないと思います。
例えば、親や先生への妄信的態度は、不完全さを持った一人間(負ってる条件の下での最善から乖離してる部分は咎められる)として彼らに接する事なく何かを得てる形ですから、
人を奴隷のように扱って金を稼いでる構造と変わらないとも言えます。
また、小学生でも何らかに関するできるできないに大騒ぎしてる(負ってる条件の下での最善以上を求めてる)わけで、
そうした不完全さ(有限性)に対する見て見ぬふりや大騒ぎを抑えてる有り様の獲得、
つまり、局面と着目無視の合致に徹する反応方針の獲得はできるだけ早く、一桁の歳の内に達成しておかないと、
ルールや現実に対する盲従や反動的反発の同時否定(過大過小反応の忌避)が期待される十代前半や、
実社会との関わりが強まってく流れの中で常識なりパラダイムなりに同じ構造が問われるべき十代後半に皺寄せがいくと想像されます。
つまり、対常識で言うところの、
特定時空性による加工部分をはぎ取った上で、その場がその場である限り持たざるを得ない性質だけを具体化条件として付し直した状態と、実際に常識として押し付けられるものとの間の、
乖離部分(常識が形骸化してる部分)、受容するだけの根拠のない部分だけを否定対象とするという処理(文系域でも抽象化具体化を機能させる上での基盤が、捨象対象選定に関わる先の反応方針)を、
規範に対し発揮できないのに(実力不足なのに)規範的なものに対し肯定反応や否定反応を見せるばかりか、社会に示しさえするというのは、
教育の不備の弊害(不備がある以上、できるだけの事はしたが駄目だった的な確定性を備えてない)と言え、絶対性への単なる切り崩し反応もその種の現象と推測でき、
例えば、日常的な生理現象なのに綺麗な人だから云々で無縁であってほしい的なバイアス持つ像形成の類は、人間扱いしない事で何かを得てる形(人を奴隷的に扱って金を稼ぐ構造に同じ)だとして、
生理現象への反応を見て見ぬ振りも大騒ぎもしない方向(人間扱いの方向)に持ってく試みが、たまたま帯びてた規範的ニュアンスに対し、
場に即した秩序かどうかと関係なく(つまり、むしろ場に合わさないという絶対性の現れとして)、固さ由来のリスクの観点から切り崩しに行ったりそれを支持するなどは、その弊害のように思われます。
3性別関連の例
他にも例えば、性別システム(種の保存戦略の一つであり、人の赤ちゃんとして存在した時点でその内部関係者)関連で言うと、
赤ちゃんの出産時やそれ以降の、種が採ってる成長の戦略やそれに伴い必要となる社会性の様態等々から、
食欲の現れに関する開放性と性欲の現れに関する閉鎖性が齎された的な学説(他種との差異やそれが生じた経緯についての解釈)が実際そうなのだとして、
さらに、その隠ぺい性と次元設定自在性(着目無視の融通性の高さとしての人間性)が、性的成熟性(赤ちゃんを産み育てられるだけの管理能力)の象徴的に見出された姿と言える性的リアリティを、
自在であるが故の振り回され可能性(対象の人間扱いも保証されない)を多分に持つ多様性として齎してるのが事実だとして、
また、期待される管理能力における、赤ちゃんとの関係の直接性と間接性の事情から、
都合に対し原則フラットな取り巻く世界との間で己との遠近重視故に生じる抱える事自体は避けられない違和感の肥大化阻止の希求、己の価値の相対性による不安定さなり空虚さなりの低減希求、
そうしたものがどうもそれぞれに不可避ではあるものの、
それら希求(引き受けを感謝すべき各役回りと表裏である苦悩への対処)が性別システムを不全化(赤ちゃんとの関係視点の埋没)させるのを抑えるべく、希求の形骸的展開に対する、
前者においては内面の性質としてるものから、後者においては局面の性質と見なしてるものから、表層的要素を削ぎ落せてる
(遠近や上下の判定、ひいては、不利益への耐用を発揮する対象の選定に、実質を持たせてる)程度を、
異性評価(性的成熟性の評価)に組み入れる(肉体や社会的実績、遺伝子魅力等に付け加える)事による防衛の必要性が事実だとして、
それらは変化してきたものの現時点での現れに過ぎないわけですし、仮説に至ってはより確からしいものがあるならそれが取って代われば良いだけなので、
不変不動なものに関する視点は必要ないと言えるはずです。
そして、以上の抽象次元の話(次元設定の管理能力の向上、
つまり、場の個性を損なわないように形式を組み上げて保障する処理能力、場の本質から見て表層的な要素には取り合わない次元を確保する能力の向上と、
内面局面および感情理性の価値対等扱いの下での上の削ぎ落しを、自由状態や確からしい表現の内実と捉える人間観が、
性別システム関連での対立の肥大化を、抽象次元において抑えるのに必要だろう、との理解込み)を割り引くものとして、
社会制度や文化フィルターといった時空の個性、思い入れなり慣れや飽きなり肉体事情なりの個人レベルの固有性、
それら(抽象物が置かれる場の性質)による偏りの付与(具体化の作用)があると見るべきで、
(前述したように、抽象と具体を必要価値対等と見る関係観は、具体形パターン個々への差別的態度の抑制に繋がると期待)
とはいえ、
それら場の個性を無視した(局面の要請とは無関係な捨象による、差異への無いもの扱い)こうあるべきとの像を押し付ける絶対主義的暴力、
場の性質を事実上無批判に肯定するよう求める(事実上の何でも有りによる、悪貨が良貨を駆逐する的に意義や秩序の崩壊展開まで呼び込む)相対主義的暴力、
そのどちらも抑えるべく、
その場がその場である限り持たざるを得ない性質として取り出されたものに限っては、それに合わせる事で生じる変形を、
抽象化と具体化条件割り出しの精度を最大化させてないまま紡がれてきた歴史性の帰結である現個性に対するそこの最大化(できるだけの事はしたが駄目だった的な、限界の確定性向上)の要求はあるにしても、
抽象次元物に許容してもらう、という方向の追求も必要です。
4必要と思われる事
しかし、近代枠組みの中にいる限り、場の固有性の把握(具体化条件の特定)を深める事自体も、(場の違いによらない)その論点化も期待できないので、
上のテーマに限らず社会の有り様(肥大化した対立含む)に対し、理解作業を展開したり影響力を行使する前に、近代の外に出てくれ、という話にならざるを得ないし、
(己の都合への絶対的、不変不動的扱いを対象や秩序の位置付けに反映させてるとまではいかなくても、己の都合をフェアを越えて保障してる人の為す批判行為や擁護行為は、
冤罪的非難やポジショントーク、不整合といった側面を含んでしまう為、その限定通用事態を通用が行き渡ってる体でごり押しする、つまり、受け手の理解力不足頼みの形にならざるを得ず、
己の非や飛躍を認めるレベルのフェア志向を持つには、場に即した損得や役回りの割り振りを支持できるだけでなく、場に対する代替可能な要素を可能な限り削ぎ落した性質把握もできる必要があるのに、
近代枠組みの中にいる限り、同種の他との共通要素を捨象する能力、文系域での確定性を高める能力の向上は抑え付けられてる為、
場の表層に合わせる有り様の弊害を、場に合わさないという表層反転で対処するなど、相対主義と絶対主義の振り子の外に出ない解決センスで固定される。
つまり、批判行為や言葉を不当には扱ってないとの理解に対し、
帰属の修正を迫ったり帰属との距離を取る、差異を担う、そうした役回りを、
帰属の操作の片棒担がせて、いらぬ飛躍を強制的に負わされる空間の拡張として展開させるのでなく、
前述の要求しつつの許容へと、つまり、暴力性の縮減へと対象の内実を向かわせる空間の確保として展開させ、空間に置かれ得る全てが不当な扱いから護られてる事実をもって実質を持たせたいなら、
まず近代の外に出る必要があります。)
何ら限定されてない状態を準備しつつ負わさせざるを得ない限定作用を特定する(具体化条件を付し直す)作業を、
文系域でも機能させる事ができる(咎めるに値する部分、取り合わないでおく部分を己の都合とは関係なく取り出せる)点も、文系者における実力の一つに数えるという意味で、
教育に(対立の肥大化を学問も大して抑えられなかった)近代の外に出てもらう必要があると考えます。
(例えば、お釣りの計算も覚束ない人であれ、その正確性の価値を一切認めてないとまでは言えないわけで、
それは単純計算含めたある種の整合性を重要とは思えなくなった結果にそうなったのだとしても同じでしょうから、
その場合、解決についての重要性の位置づけが、より普遍的と見なしてるクラスから、より特殊的と見なしてるクラスに変更されたと解するとして、
その逆の処理を文系者に、文系域での具体化条件の付し直し、及び、それを可能にする、局面と着目無視の合致配慮について促す教育にも、獲得促しに並行して取り組む必要が、
フェア主体アンフェア主体を区分けせず保障する近代権利観と同じ構造の限界持つ、近代人センスな理解力からの個々人の脱却はもちろん、
文系域の実力、つまり、理系に水を開けられてるいらぬ飛躍の除去能力の向上、ひいては、理系の実績の威を借りてるも同然な現状からの自立の観点からも、あると想像します。)