あの本屋のあの隅の方にあるあの黒い本
「看板猫がいる古本屋がいる」
そう聞きつけて、正確には人からの会話で得た情報ではなくインターネットから得た情報なので、耳で聞きつけてというよりは、読みつけてとでも言うのが妥当か。
なにはともあれ、猫がいる本屋が、新居から歩ける距離にあるという。
引っ越しで泣く泣く処分を決めた本の引き取り先も探したかったので、早速その古本屋に向かった。
JRの高架の傍ら、穏やかさを膨ませ始めた春の陽の光がほどよく射し込む、いい雰囲気の本屋だった。
猫はおるまいかと猫を探す目と、良い本はあるまいかと本を探す目とを、うまいこと両方利かせるよう心がけながら、店中の本棚の端から端までを巡った。
残念ながら、猫はいなかった。
しかし、店の奥の方の棚に、気になる本があった。
一冊の黒い表紙のハードカバーの本で、内容は学術書だろう。
もう10年も前の大学時代に、読んだ覚えがある。
しかし、ページをめくってみても、読んだと確信できるような内容はさしあたり見当たらない。
私が読んだのは、同じ著者の別の著書だろうか?
でも、本のタイトルに妙に覚えがある。
目次を見てみる。
確かに、私が大学時代に専攻していた内容に、卒業論文のテーマにした内容に近い。
だが、自分がほんとうに読んだかどうかは、判然としない。
その黒い本は、付箋がついたまま売られていた。
私が大学時代に使っていた付箋と、同じ形の付箋だった。
紙の付箋によくあるパステルカラーの、細い付箋。
そういえばこの古本屋は、私が通っていた大学および私の下宿から一駅のところにあって、この辺りに下宿を構える学生もそこそこいた。大学のすぐそばよりも、家賃相場が安いのだ。
私と同じ大学の、もしかしたら同じ学部の学生が、この本を買った。そして、私もかつて使っていた大学の生協で買った付箋をつけながら、読んでいた。
思わずそんな想像を、脳裏に展開する。
この本を必要とするような仕事や勉強がどこにあるかが、仕事も勉強もいまいちのできだった私には、自分の通っていた大学以外に思いつかない。
でも、指導教員はもう数年前に退官してしまったし。というか、学部自体も、数年前に大学内部の学部再編でなくなってしまった。
そんなことを思いながら、私は黒い本片手に唐突に、通っていた大学の景色に立ち返る。
10年も前の景色に。
けれども、黒い本は今の私に必要な本ではなかった。それに、社会生活というものにすっかり揉まれ、脳を怠惰に使うことに生きる要領を得てしまった今の私に、こんな学術書を読み終えるほどの力も残っていなかった。
結局、別の本を買って店を後にした。
*
夏になった。
私の住む街からは遠く遠く離れた土地に住む、ある小説家の方が、私が猫に会えずに黒い本に遭ったあの古本屋について、Twitterで言及していた。
「へえ、うちの近所でこんな出来事があるとは大変だ」と、iPhone片手にもっともらしく驚いてみせる。
しかし、家から歩いてすぐの生活圏内で起きたことを、家から千キロ近く離れたお会いしたこともない方から、インターネットを通じて知らされる。生活圏内の定義とは何なのか。
生活圏内とは、けっして物理的距離の範囲にとどまらないのだなと思い知る。
そんなわけで、あの古本屋に久々に行きたくなった。すると、ちょうど2日後に外出する用があったので、帰りに寄った。
猫と本、両方に目を凝らしながら、また店中の本棚を入り口から出口までじっくり巡る。
やっぱり、猫はいなかった。
だが、あの黒い本は未だ同じ棚にあった。
雑誌や雑貨が並ぶ店の入り口付近の窓辺を熱している夏を、でんと遮る木の書棚。
その書棚の影になった、奥の隅の棚の、中段あたり。
春に見たときと、同じ場所だ。
黒い本は、なつかしいパステルの細い付箋がついたまま、まだじっと古本屋にいた。
けれども、私は買ってやることはできない。
今の私に必要な本ではない。
夫と二人暮らしの我が家には、気に入った本をみんな置いてやれるほどの本棚を置くスペースがないのだ。
かつて勉強していた分野の事物に、あてどなく思索を巡らせる時間より、夫に今夜どんな飯を食わせるかだとか、さっき面接を受けてきた仕事が決まったあとの暮らし方の検討だとか、そっちの時間をおざなりにできない立場なのだ。
でも、この本に遭った偶然それ自体は、私にとってとんでもなくまばゆい。
10年前、社会に出る前、できの悪い学生であったなりに、私は大学の講義やゼミで過ごす時間が好きだった。
しかしながら、学んだことを活かす道も開けずじまいに、大学を出ての10年を過ごした。
ただ、大学でやれ思想や哲学だのをかじり、やれレジュメだのレポートだの論文だのをひたすらに書いて知った、
「人間がさまざまにものを考えることは、豊かで幸福なことである」
というささやかな実感は、社会人となってからも、私をずっと支え続けている。
世の中や自分の中にある、息苦しそうで不思議なできごとの数々の、正体を知りたいと思うこと。どう生きるのがよいのか、なにが美しくてなにが幸せなのかを、自分なりに考え軸を持つことを、諦めたくない気持ち。実用/非実用を問わず、興味や関心の枝葉をあちこちへ伸ばすこと。
こういった、人が考えることによる営みがみんな尊いことを、私は大学で教えてもらった。古本屋の黒い本からびっしりはためくパステルの付箋と同じ付箋を、あちこちの本に貼りながら。
黒い本を前に、私は改めて、学生時代からいままでの10年を遡る。
そして、仕事や些末な個人的事情に忙殺されるばかりだったと思われた自分の10年の果てに、学生時代の私が得た貴重なものを、私はまだちゃんと持っている。
それを確かめることができて、安堵する。
私はまだ人としては果てていない、そんな気がする。
*
人は、過去から未来にまっすぐ一方向に生きているように思えるけれど、そうでもない。
本屋、とくに古本屋は、人間の手で書かれた過去が並ぶ場所だ。
書棚に並ぶ、書かれた時代も背景もばらばらのものたちは、雑多にひしめきあいながら、人の心の時系列を好き放題に狂わせてくる。
たとえばあの黒い本が、私の経験に不思議に反射して、私の心中をプリズムみたいに一瞬照らすように。
そうやって、過去と今のあいだを、たえず跳ね返りながら暮らしている。
あの古本屋は、その事実を思い出したいときに行く場所だ。
ついでに猫をいつか見たいという、小さな未来の期待も隠しつつ。
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