「銀河鉄道の夜」感想文
思いがけず感想文を書くことにした。どうしてか。コロナだから。
コロナになってから、家族でいっしょにビデオを見ることが増えた。うちの子どもらは10代男子で、最初の方こそ、チェスや将棋やゲームもしたが、そのうち、したがらなくなった。
顔をつきあわせないわけにはいかない家族と、ほんとは顔を見ないでも過ごせそうな年頃の彼ら。みんなで楽しめることは、いっしょに何かを見るくらいしかなかった。何でも、彼らが見たいと言うものにつきあった。
子どもらが見てもいいと思うものは、たいていファンタジーの要素が強い。異世界や、現実にはないものが含まれる作品ばかりだ。そういうものには、たいてい英雄の主人公がいて、魔法やら、常人にはない力を持っていたり、実は常人ではない出自だったりする。
アニメや、ある種類の少年漫画特有のような設定で、私ひとりだったら、選んではいない。そもそも、食指がうごかない。それでも、子どもらといっしょに何かできるのがうれしいし、見れば見たで楽しめる。実際楽しんだ。
秋の声を聞くようになってから見たのは、「Re:ゼロから始める異世界生活」、「Dr. Stone」、そしてきのう、シーズン1の最後のエピソードを見終わった「盾の勇者の成り上がり」だ。
リゼロ(「Re:ゼロから、、」)と「盾の勇者」は、同じように、他者とそうかかわりもない、ひきこもり気味な二十歳前後の若者が主人公だ。そこが、それまでに見てきたファンタジーものと、全く違う。
特別でないはずだったが、実は高貴な出自で、とか、実は魔法が、などの隠し玉はない。異世界に召喚されて、勇者として扱われるのも、同じ。普通の能力しかなく、自分についての色々な葛藤や劣等感もある青年らが、どちらの話でも、活躍もし、傷つけられ、痛い目にも合わされる。大人への成長譚であり、英雄譚だ。
どの話も、異世界に唐突にひきこまれる設定など、ふだんの私なら、バカバカしいと一蹴しそうなことばかりだ。盾の勇者はラノベとして聞いたことがあった。その頃の甥のような、オタクの男子が読む本、くらいとしか認識していなくて、どんなに、その本が一番好きだという声があると聞いたり、評判や人気を聞いても、手にとってみようと思ったこともなかった。
それは、私の、決めつけという弱点だ。その最初の決めつけを、コロナと言う状態のおかげで突破することになった。そして、見始めると、バカバカしい設定だと、それでも思いながらも、話にひきこまれた。どの作品も、2回に1回くらいは感動した。涙も出た。
たとえ感動しても、ありえない設定、都合のいい冒険譚、主人公は英雄になる、または英雄だということが約束されていること、などは、いつまでも、失笑しそうなこととして頭から離れなかった。
それでいて、ここまで感動したのも、見るのを、子供らと同じくらい本気で楽しみにするようになったのも、コロナで強いられている生活のせいなのだと思う。
これもコロナのおかげで始め、ハマったnoteだが、今日、感想文募集を目にした。岸田奈美さんの呼びかけだった。それで、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜銀河」を読んだ。有名な話なので、知った気になっていたが、話として読み通すのは初めてだった。
端的に言うと、やや恥ずかしいが、私には、この有名な文学作品が、最近見たリゼロや盾の勇者と同じように思えた。また、その他の、コロナの間に家族みんなで見たどの作品のようにも。
異世界への召喚。自分で望んで入ったわけではない空間。自分のコントロール外のこと。宇宙人とか異様なものでなく、自分のような人間がいる。でも、現実ではない。中での、心の動き。そこに行く前の、自分の抱えるいろいろな問題や現実。
読んで感じたことを、3点に分けて紹介する。
1 異世界に連れて行かれた、特別でない若い人
「銀河鉄道の夜」の文章や世界観は、不可思議だが、美しい。現実と現実でないことの、どちらもが、切ないような言葉で語られる。出てくる主人公は、若いひと。小説では、異世界は、夢として捉えられている。その夢の中で、主人公は、現実に抱えることを抱えたまま、現実にはない美しい世界を体験する。自分だけが。自分がいちばん親しくなりたい人とだけ。
そして、現実に戻ったとき、小説の中では、主人公は生きているが、親しくなることを願った相手は死んでいる。自分が思いたい人物像のまま、化石のように葬り去られる。そういうと、意地の悪い言い方だろうか。でも、そうなることで、自分が信頼し続けたい、いちばん好きでいたい相手は、永遠に、自分が思うような人のままでいることが保証されている。
書いた筆者は、自分には、長くはない余命があることを知っていた。思春期ではないが、20代の、まだ若い筆者。ファンタジーの世界を綴り、自分の魂を遊ばせていたのだろう。ジョバンニとして。
カムパネルラという親友に、筆者が近しくしていた友人や、病死した妹を重ねる読み方もあるだろう。でも、私には、カムパネルラのもとになっている誰かれ、というのはまったく関係ないことに思える。誰でもいいが、誰かれにまみれ、かかずりあう、自分、が焦点なのだから。
自分に、思いをよせるだれかがいて、信じる姿のままで永遠にいてくれる。そういうものを持つ自分。自分の魂の友としての、ある意味完璧な友人。それがカムパネルラという存在に思える。
2 方言ではなく、外国語を思わせる言葉
私は宮沢賢治の作品は、セロ弾きのゴーシュと妹の死を悼む詩と、雨ニモ負ケズしか読んだことがなかった。びっくりしたといえばうそになるが、ここまで、外国語の翻訳のような仕立ての言葉で書いてあるのを、やや新鮮に感じた。少し戸惑うような気もした。
雨にも負けずの、泥臭い、損をすることはあっても得はしないような、朴訥な正直者の印象は、宮沢賢治に重ねられることが多いと思う。でも、あの詩の中の男も、方言では話していなかった。
だいたい、地方に住む人は、方言だけで生活してはいない。いつも、標準語との二重言語生活だ。だから、違和感はないはずなのだが、ここまで、岩手なり、地方、田舎、と結び付けられて認識される作家が、東北のことばをみじんも出さないばかりか、西洋を連想させる設定で、すましたような、あたかも、翻訳で読む外国作品のような呈というのは、私には、不思議に思えるほど、新鮮だった。
3 宮沢賢治のイメージと現実のギャップ
宮沢賢治に重ねられる、慎ましやかで、土着で、故郷に密着し、岩手を愛し、というイメージは、きっとそれはそうなのだろうと思う。私は、地元民でもないし、たとえ、イメージでも、ないところから、それを語り継ぐひとは出ないだろうと思うから。
でも、賢治は、昭和八年生まれだ。私は、その同じ年に生まれた父がいた。同じ時代を生きていた人たちを、親戚として何人も知っている。
その時代に思いを巡らせると、賢治が恵まれた環境にあったことを、つくづく思う。高等教育を受けられ、今でいう大学にもすすめた。詩で有名な病死した妹も、そのことは悲劇だし同情も禁じ得ない。が、詩の印象で浮かぶ、哀れな印象は、彼らきょうだいの環境には、病気や早世以外にはない。妹は、東北の片田舎から東京にある学校にも行っていた。
時代。地方。それも、影響力のある都会からかなり遠いところにある、東北の岩手。病気。比較した場合のみ、浮き上がることだが、賢治を、不運の象徴にように思ってしまうのは、イメージ操作のせい、成果、にも見える。
賢治の病気。余命のなさ。自分のコントロールできないことで。焦燥感。なにかしなければ、と言う気持ち。何かしたいという気持ち。
賢治とまったく違う時代や背景を持って、この本を読む私には、今の自分たちに繋がることも、たくさんあるのはわかる。そして、今の、コロナ下での状況は、この本に感じることを、色濃く影響させている。
筆者、宮沢賢治のイメージと現実には、やや以上の乖離がある気がする。誤解というか、誤理解。岩手イコールいなか、はそうなのかもしれないが、東北イコール貧しいわけではない。妹が死ぬのは悲劇だが、その妹は、人生をまったく謳歌できなかったのではない。
だいたい、東北というだけで、「おしん」や遠野物語や何か、(もちろん、宮沢賢治自身の有名な詩なども)で培われた先入観が入ってくるような気がする。NHK朝ドラでも、ヒロインがみんな、おしんではない。自分の思う結婚相手やしたい仕事が選べない以外には、同情も感情移入もできない主人公の時もある。
現代で、賢治の作品を読む私たちには、あの時代、というだけで、今よりは、誰でも不利な不便な、同情すべき状態にあったので、いっしょくたになるのではないだろうか。そして、寒い、東京からも遠いあの地域だし。岩手だし。病気を患っているし。
賢治は、その時代にしては、比較的恵まれたことになる環境にいた。でも、それが、私がこの小説に感じた、リゼロや盾の勇者という作品に似てると思ったこと、と通じる。
賢治を書かせるのは、焦燥感に思える。突き抜けるなにか、逃げ込めるなにか、が、書くことに注ぎ込んだのではないか、と。
長くは生きられないことを知ってから、チェロや書き物や色々なことを始めていたと言われる賢治。それでいて、出版された、いわゆる、世に出た著作が、生前にはほとんどないこと。彼には、著者になる、ことより、書くこと、のほうに大きな意義があったのだろう。
私が、「銀河鉄道の夜」は焦燥感が書かせたと思うように、それが、私やうちの家族が、ファンタジーもののビデオを次々と見続けている理由なのだと思う。アニメの設定を、まだどこかで小馬鹿にし、批判しながら、続きが見たくてたまらなくなる理由なのだと思う。
焦燥感。自分がコントロールできない状況。終わりがいつかもわからない不安定さ。
科学者でも医者でもなく、状況打破の力にもなれない。役に立てない。自分で、突き破るための行動を起こすほどの、覚悟もスキルもない自覚。無意識に、夢を見るような状態を欲しているのだと思う。
コロナ下で、式典もファンファーレもない中、高校を卒業し、大学生になった上の子は、入った寮を、2ヶ月でひきあげた。寮に住みながら、人との接触は制限され、授業も食事も、すべて自分の部屋でという生活に、寮の若い人たちは、ひとりまたひとりとネをあげていき、中には本当のうつ状態になる人も出ている。みんながひきこもりのようになっていた、と、上の子も今では笑えるまでになった。
以前から、読書量が多く、ファンタジー作品をどんな媒体でも見る上の子は、オンラインの授業の合間に、マンガを書くようになった。ファンタジー小説にとりかかるようになった。やや本格的に絵を描くようになった。音楽のソフトウェアーを手に入れ、作曲までしだした。
行きようのない、彼の中の、見えない何かが、形になりたくて、出てきているのだろうなと思う。焦燥感もおおきいと思う。自分のコントロール外。始まりも終わりも、自分では決められない。きっと、私もそうなのだろうし。この6月に思い切ったnoteへの参加。上の子の、私の、「銀河鉄道の夜」の経験のように思える。
書くものは、読み手があるから読み物になる。作家は、読者がいるから成り立つ。
それはそうだ。だから、「銀河鉄道の夜」は知られているし、私たちは賢治を作家として知っている。でも、それは賢治の存在を知らせる媒体があったから。広告塔のようになってくれる人やなにかがあったから。
賢治の作品は、ほとんどが、死後、世に出た。草野心平はじめ、ほかの人たちのおかげで。賢治自身は、読まれていることも、作家として世に認識されていることも、実感として持たないままだった。
賢治の焦燥感は、作品を、書く、ところで、昇華をみていたのだと思う。彼の焦燥感は、世間的な名声やら評価とは、違うところ、ジョバンニの夢の中のような、自分しか知らないが、それでも自分を落ち着かせること、で、少なくとも、とりあえず、完結していたのではないのだろうか。
完結した話になっていなくても、その作品をしたため、推敲を重ね、書き直す、という書く営みそのものが、彼にはいちばんの意義だった気がする。
賢治の焦燥感が、私たちのと、変わらない気がするのは、おかしいだろうか。賢治と、自分たちは、または自分は、同じだと思うのは、傲慢に聞こえすぎるだろうか。
時代。環境。自分にコントロールできないこと。異世界への召喚もなく、夢の世界が広がらない、うちの子どもは逃げる。遊ぶ。私は逃げる。私は遊ぶ。誰もが、それぞれに。夢の中に。異世界に。そして、表現の世界に。その手段を持っている私たちは、みな幸運だと思う。
うちの上の子の「銀河鉄道の夜」は、形になるのだろうか。彼のもまた、未完のまま終わるのだろうか。賢治のように、誰かに見つけられなくても、光をあびることがなくても、銀河鉄道の夜、を書くことで救われていた魂のように、なんの形でも、表現する、ということで、それはそれで意義があることなのだろう。
書き上げられなかった賢治の「銀河鉄道の夜」にも、途上の息子の習作のあれやこれやにも、私は同じように拍手を送ってやりたい。
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