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会社でのあいさつは、「お疲れ様です」ではなく「こんにちは」にしている

タイトルのままなのだけど、会社(フルリモートで働いている私の場合はオンラインミーティング)でのあいさつは、「お疲れ様です」ではなく、「こんにちは」と言うようにしている。
さらに、心なしか、声量と声のトーンを上げて、「こんにちは⤵️」ではなく、「こんにちは~⤴️」といった感じに。

もちろん私も以前は「お疲れ様です」と言っていた。
「なぜ?」と聞かれても困るくらい、無意識のうちに。

いま会社で「お疲れ様です」とあいさつしている人に、「なぜ『お疲れ様です』なんですか?」と聞いたとしても、明確な理由を挙げられる人はほとんどいないんじゃないだろうか。

特段それが問題というわけではない。
あいさつとはそういうものだ。
発するタイミングや、選ばれる文言が定型化していて、そういう「パターンとして発せられる」こと自体に意味がある。

そんな無意識の「お疲れ様です」を、意識的に「こんにちは」に変えたのは、私にとってのある印象的な出来事がきっかけだ。

いまは小3になる息子がまだ保育園に通っていた頃。
当初は妻が送り迎えをしてくれていたが、コロナ禍で私がリモートワークになったのをきっかけに、私が送り迎えをするようになった。

すると、夕方保育園にお迎えに行った時に、玄関を入って息子のいる部屋まで向かう廊下ですれ違う先生たちから、こんな声がかけられる。

「こんにちは~、おかりなさーい」

なんか新鮮だな、なんか良いな、と思った記憶がある。

大人の人から、職場(先生たちにとっては職場だ)で、「こんにちは」というあいさつの声をかけられる、というのが、良い意味で耳馴染みがなく、新鮮だったのだ。

そして、なんか良いもんだな、とも思った。

ひるがえってふと考えたのが、なんで自分は会社でのあいさつが「お疲れ様」なんだろうか、ということだった。

明確な理由が思いつかなかったのは、私も同じだ。
その次に考えたのが、「じゃあ、変えてみてもいっか」だった。
「お疲れ様」ではなく、「こんにちは」と職場であいさつされることが、なんとなく気分が良いのであれば、あれこれ考えずに、それに変えてみてはどうだろう。

ということで、オンラインミーティングをつないだ最初の一言を、「こんにちは~⤴️」にする習慣が始まった。
(語尾の「~⤴️」は、保育園の先生の朗らかなイメージを自分なりに再現しているつもり)

もちろん最初は相手も戸惑う表情を見せていたけれど、意に介せず続けていると、徐々に「こんにちは」と返してくれる人が出てきた。
なかには「なんで『こんにちは』なんですか?」と聞いてくれる人もいるので、そのときは保育園でのエピソードを話す。
そうすると、たいていは「たしかに、それなんか良いですね」と言ってくれる。

そう、なんかよくわかんないけど、なんか良い感じがするのだ。
理由はないけど、共感はある、というのが、もっとも強い。

「こんにちは~⤴️」を続けていると、次に面白い変化に気づく。

朝からオンラインミーティングが続くと、午後になる頃には「こんにちは~⤵️」と、矢印が下向きになる(声量と声のトーンが下がる)のだ。
本当に無意識のうちに。
さらにさらにオンラインミーティングが続き、夕方になってくると、ついには「こんにちは」が口から出てこなくなり、「お疲れ様」と言ってしまうのだ。
これも、本当に無意識のうちに。

理由ははっきりしている。
そう、「疲れた」から。
元気がなくなった、のだ。

私にとって今、「こんにちは~⤴️」は、元気の残量のセルフチェックになっている。
元気があるから良い、無いから悪い、ということではなくて、元気の残量に「気づいている」ことが大事だと思っている。

そういう意味で、「こんにちは~⤴️」のセルフチェック機能は、よく自分を映してくれていると思うし、自分を助けてくれているとも思う。
疲れたら休む、という忘れがちな論理を思い出させてくれることによって。

ひるがえって、「お疲れ様」のときはどうだったのだろう、と考えることがある。

少なくとも私にとって、「お疲れ様」は、元気があろうと無かろうと、すんなり口を突く言葉だった。
だから、朝から夕方まで、同じ「お疲れ様」でオンラインミーティングをこなせていた。

「お疲れ様」には、元気の残量のセルフチェック機能はなさそうだ。
だからこそ、便利なあいさつなのかもしれない。
自分の状態に自覚的になる必要がないのだ。

「都会で、おおくの人々は、感覚を遮断して生きているそうです」

感覚遮断(sensory deprivation)か。
かつて心理学の教科書でみたおぞましい実験場面を思いつつも、なるほど・・・言い得て妙だな、と思いました。

確かに、都会では、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた満員電車で、「五感を解放」しているひとを、僕は、ほとんど目にしたことがありません。

(中略)

むしろ、満員電車などのひとがたくさんいる場所では、一時的であるけれども、

「感覚すること」を止める
「感覚する自己」を放棄する

そして

満員電車に身を委ねてボーっと過ごす

という方がしっくりきます。
それが、わたしたちの「サバイバルストラテジー」でしょう。


誤解があるといけないので最後に一言だけ。

「お疲れ様」を言葉狩りしたいわけじゃないのだ。
これはこれで、愛情のこもった言葉だと思っている。

一日に何度も繰り返す そのことば
もしかしたら「こんにちは」よりも
多いくらい
そのひとの疲れに「お」をつけて
「さま」までつけて
「おつかれさまです」と
声かける ぼくらの日々

やさしくて強くて 一生懸命で
生きることはただそれだけでも
大変で
その愛も仕事も大切で 頭をさげて
「おつかれさまです」と
いいかわす ぼくらの国


「お疲れ様です」を廃して、「こんにちは」にすべき。
そんなことは微塵も思っていない。
ただ、無意識を意識的にちょっと変えてみたら、今まで見えなかったものが見えるようになって、その感覚ってちょっと面白いな、という話しがしたかっただけ。

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