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タスクをナラティブで書く

タスクのためのタスク管理ではなく、人のためのタスク管理を思い描いて、タスク管理に「再」入門しているわけだけど、最近よく人に勧めるのが「タスクをナラティブで書く」というTipsだ。


タスクをナラティブで書いてみるとこうなる

「タスクをナラティブで書く」とは煙に巻いたような言い方けど、やってることはなんてことはない。ToDoリストや作業メモに書き込むタスク名を、話し言葉で書くということだ。「今日やろうと思っているタスク」とか「今から取り掛かるタスク」のような「鮮度の高い」タスクについてこれをやっている。

そのタスクに取り掛かるにあたっての自分の気持ち(「やりたくない」とか)や、「全部は終わらないけど少なくともどこまでは進めておきたい」といった(心理的な)サブゴールのような、タスク「名」とは呼べないようなものも一緒に書いてしまう。

たとえばこんな感じだ。

「なんかちょっと思いついたから◯◯の件やっちゃうか。そしたら明日楽になるし。」

「どうにもやる気にならんからまずファイル開くだけでも」

「◯◯の件で□□さんが求めてるのって要は△△なんだから、見た目はいいからそこだけ埋めれば渡せるんじゃないか」

タスクをナラティブで書くと、「人のための」タスク管理になる

これの何が良いかと言うと、取り掛かる前に気が楽になるというか、もうちょっと見方を変えると、タスク名を書いた時点ですでにタスクに着手している(仕事が進んでいる)というところだと思う。

たとえば、「◯◯の件で□□さんが求めてるのって要は△△なんだから、見た目はいいからそこだけ埋めれば渡せるんじゃないか」だったら、これってすでに、タスクの中身や進め方について考えているわけだ。

こんな感じで、タスク名として、自分の気持ちやサブゴールを一緒に書こうとすると、タスクの中身や進め方について自然と思いを巡らすことになる。なので、タスク名を書いた時点で、つまり、「やること」を決めた時点で、すでに「やっている」状態になっている。

だから、取り掛かる前に気が楽になる。
だって、もう取り掛かってるから。

ちなみに、タスク管理「再」入門なんてことを思いつくずっと前に、着手主義ということを書いていたのだが、いま読み返してみると、この「タスクをナラティブで書く」というのはまさに、着手主義になっていることがわかる。

着手主義を僕なりに定義してみると、「終わらせなくていいから、まず手を付けてみる。どれくらいの手の付け方かというと、『ファイルを開く』くらいでよい。やる前はいろんなことが頭をグルグルして腰が重くなるけど、いったんやり始めると、『なにがわからないか』がわかったり、そもそも『実はわからないことなんてなかった』ということがわかる。結果、気が楽になる」だろうか。

《やる前はいろんなことが頭をグルグルして腰が重くなるけど、いったんやり始めると、(中略)気が楽になる》、ここがまさに「人のための」タスク管理になっている。

ではなぜ、タスクをナラティブで書くと、「人のための」タスク管理になるのだろう。

ナラティブとはなにか

それを説明するために、まずはそもそもナラティブとはなにかというところから。

この過去―未来―現在をつなぐその人なりの語りをナラティブと呼ぶ。
(中略)
ナラティブは「語り」と訳されるが、筋書きや内容を指し、配役や構造が決まっている「物語(ストーリー)」とは違い、一人ひとりが自分目線で起こった出来事やそれを通じて感じたことを主観的に語ることを指す。

なんか急に深遠な感じの説明になってしまったが、今回の文脈に引き寄せれば、要は、そのタスクにまつわる自分の思いを、他人に見せるお行儀のよい言葉ではなく(ここ重要!)、自分の頭に浮かんだ言葉のまま書き留めることがナラティブ、すなわち「語り」なのだ、ということだと思う。

たとえば先ほどの例で出した「なんかちょっと思いついたから◯◯の件やっちゃうか。そしたら明日楽になるし。」であれば、タスクにまつわる自分の思いが、《過去―未来―現在をつなぐ》形で表れている。

  • 《なんかちょっと思いついた》という、(ごくごく直近の)過去。

  • 《そしたら明日楽になるし》という未来。

  • その過去と未来をつなぐ線上にあるという意味での現在における《やっちゃうか》という思い。

といっても、書き込む時に過去―未来―現在を意識して書いてるわけではない。

あくまで「頭に浮かんだことをそのまま書く」というだけであって、「そうやって書かれたものは結果としてナラティブ的になっている」という100%結果論としての話だ。

やる気スイッチを押すのは誰か

で、次に、こうやってナラティブでタスクを書くことがどうして「人のための」タスク管理になるかという話。

先ほどの『理念経営2.0』では、ナラティブは何に効いてくるかというと、それは「センスメイキング」なのだ、というふうに説明されている。(またまた煙に巻いたような言い方)

こういった時代に組織を経営するためには、経営者などだれか一人が状況を観察し、仮説構築をするのでは危険すぎる。

そこで重視されるようになったのが、不確実な環境のなかで各人の意味づけに基づいて意思決定を行っていくセンスメイキング理論だ。

センスメイキング理論では、決まった答えが見えないなかで、各社員がそれぞれの置かれた環境下で見ているものを自分なりに感じ(Scanning)、解釈して(Interpretation)、持ち場に戻って実行・表現(Enactment)することで、意味づけしていくプロセスを重視する。

(中略)

自分の解釈で行動をする余地が残されているので、このセンスメイキングのプロセスを経ると、各自が「納得」できるという特徴がある。

『理念経営2.0』では組織論の文脈で説明されているが、これを「ひとりの個人のなかでのタスクの実行」という文脈に引き写すとこうなる。

ひとつのタスクを目の前にしたとき、それをどう進めればいいのか、時間内に終わるのか、上司から言われはしたもののあらためて考えると何のためのタスクなのか、といったそのタスクにまつわる様々な思いが頭をよぎるが、それに対する《決まった答えが見えない》ことは往々にしてある。

そこで、そのタスクにまつわる様々な思いから目を背けてタスクの実行に猪突猛進(盲進?)するのではなくて、まずはしっかりとそのタスクを《自分なりに感じ(Scanning)、解釈(Interpretation)》しようとする。

といっても大げさなことではなく、その感じたり解釈したことを、そのままの言葉で書き留めるということだ。書き留めようとするからこそ、感じたり解釈が進むとも言える。

その感じたり解釈するための枠組みとして汎用的なのが《過去―未来―現在をつなぐ》ことで、他人に見せるお行儀のよい言葉ではなく(やっぱりここ重要!)、自分の頭に浮かんだ言葉のまま書き留めることが自然と《その人なりの語り》や《一人ひとりが自分目線で起こった出来事やそれを通じて感じたことを主観的に語る》ことにつながる。

結果として、タスクがナラティブで書かれる。

こうやってタスクをナラティブに書く/書こうとする過程で《不確実な環境のなかで各人の意味づけ》ができていき、ひいてはそれが「やろう」「やれそう」という《意思決定》につながり、《持ち場に戻って実行・表現(Enactment)》というかたちで推進力を生む。

自分の解釈で行動をする余地が残されているので、このセンスメイキングのプロセスを経ると、各自が「納得」できるという特徴がある。

そう、自分で自分に《納得》して、タスクに取り掛かれる。

まあこういう感じで理屈は入り組んでいるのだけど、そんなことを知らなくても、とにかく「タスクをナラティブで書く」というただそれだけの行動によって、タスクのためのタスク管理ではなくて、人のためのタスク管理に直結するという点で、とても人に勧めやすいタスク管理「再」入門的Tipsだと思っている。

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