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【暗黒メモ】誰が言ったか知らないが…ではなく「誰が言ったか」の時代

今時の時代精神は「誰が言ったか知らないが、言われてみれば確かに聞こえる空耳アワー」の対偶なのだろう。

政治的に言えばアイデンティティ・ポリティクスと権威主義の接近である。

「誰が言ったか」が大事な時代

シュナムル氏の垢消し騒動について白饅頭氏が取り上げた。

それを受けてコメントをツイートし、白饅頭氏に拾われた結果がこちら↓

こうなった理由について、上述の白饅頭氏のコラムはこう指摘している。

世間の人間がうっすら権威主義・属人主義的・対人論証的な価値観を内面化してきたからこそ、だったら経歴や学歴を盛ればいいじゃんという「ハック」を試みる人を生み出している――ということですね。

白饅頭日誌:8月5日「雑感:フェミ男子アルファ垢消し事件について」

言い換えると自分の頭で考えない人間が増えたという現状の裏返しだ。

もう難しいことはわからないから、社会というものに関心も持たなくなり、文字通り"手の届く"範囲の物事にしか興味を持たない、そして"誰かがやってくれる"だろうから任せて文句を垂れるだけ、という姿勢の人間が増えた。

これは権威主義の一つの形だ。

「正しさ」という権威と東浩紀の"最強の弱者"

話は2014年の正月明けにさかのぼる。ビデオニュース・ドットコムのマル激に出演した東浩紀がこんな発言をしている。

宮台: ハンナ・アーレントが主張した「悪の凡庸さ」の日本版とも言うべき問題で、戦前戦中と、信念を持って何かを行うのではなく、「ビンタをしなければ自分たちに飛んでくるから」というコミットメントのない増長があった。そのなかで、一部ではあるものの、マイクロなところで立派な人を信頼して、前に進むという時代があったと思うんです。ここで大事なのは、日本は血縁主義ではないこと。そのため、顔を突き合わせ、生活や仕事の場を共有しないと共通の前提が生まれず、共通の前提がないと「立派だ」という観念も抱けないんです。つまり、日本の社会構造が「トゥゲザー」であって初めて絆ができるというメカニズムだったので、流動性に極めて弱い。その点、ディアスポラの人々――例えば中国人やユダヤ人は、空間や風土に依存せず、アセットとしての人間関係をひたすらに維持するから、どこでも働けるし、流動性に強いですね。

神保: 戦後の会社共同体でも、ただ単にセールスの成績がいい人が「立派」だとは必ずしも考えられていませんでしたね。後輩の面倒見がいいとか、人徳があって、それが出世につながることもあった。しかし、流動性が高まり、成績によって引き抜きが当たり前のような状況になると、クビにならないために唯一依存できるのが、セールスの実績になってしまう。

東: 日本における「正しさ」って、弱い人間に味方をすることしかないんです。その点、福島を見ていて思ったのは、いまは弱者に寄り添うことができなくなっているということ。そうやって唯一の正義が失われると、国家はクレーマーになり、「おれがマイノリティーだ、傷ついたんだ」と噴き上がって、それをみんなで応援することが正義になっていく。

宮台: それ以外に、感情を調停する原理がない。

東: 日本は「正しさとは何か」という原理的な問題に直面していると思います。宮台さんがおっしゃる「立派」なんていう言葉もすでに死語で、日常的にまったく使われていないですよね。

神保: 日本人は「正しさ」の基準を失っていると。

東: なにかの正しさを明確に打ち出し、前に進んでいくということは、そこで必ず何かを切り捨てることになるので、「そういうことはやらない方がいい」という国になっている気がします。これは政治の機能不全にも直結している問題でしょう。

東浩紀氏:2014年、底の抜けた日本を生き抜く

「正しさ」の基準を失ったところで、弱者の見方という判官びいきが幅を利かせるようになった。

そのことをジャーナリストの佐々木俊尚氏も批判的に見ている。

 だから私たちはこの21世紀の社会において、その場面場面に応じて「誰が弱者なのか」「なぜいま公正さが失われているのか」「いったいどうすればバランスをとれるのか」ということを都度都度考えて、検討していかなければなりません。それが現代の社会における公正さだと思います。
 しかし前世紀の価値観から抜け出せない新聞テレビや一部の社会運動は、いまも「絶対的な弱者」観に頼り、「新しい弱者」に目配せできていません。社会に対する観察の射程が短すぎるのです。「弱者」を固定的なものとしてとらえるのは、前世紀の価値観です。つねに「こぼれ落ちている弱者はいないか」「弱者が転じて強者となって抑圧になっていないか」ということを私たちはつねに振り返り続けなければならないのです。

わたしはこういうおかしな発言の背景にあるのは、実はこれら高齢男性が自分たちを「多様性の広まる社会において自分たちの意見を聞いてもらえない」マイノリティだと捉えていることではないかと考えました。だからこそ自分たちの価値観サークルに閉じこもり、その価値観にすがりついているという構図なのだと思うのです。区議も書店に来たおじさんも、「俺たちは社会にわかってもらえないよな」と言う少数派を自認する子供っぽい目配せを、大勢の場で仲間のように見える人々に向かって送ってしまうのです。

マル激出演からほぼ1年後の2014年の大みそかに東浩紀はこう言い放った。

どうせTLは紅白で埋まりだれも読んでないだろうからひとつ呟いておくと、ぼくがあの問題でもっとも考えてしまったのは、写真の倫理云々というよりは、セックスワーカーという「最強の弱者」が今後言論界で果たす役割の厄介さですかね。思えば今年はけっこうセックスワーカーが目立った年だった。
セックスワーカーってとても興味深い存在で、それをまえにしたときの人々(両性ともに)の戸惑いそのほかは十分に社会学的/批評的/心理学的分析の対象になるのだけど、ではその戸惑いを積極的にひとつの武器として使われたときにどう対処するのが正しいかとなると、これはなかなか難しい。
その厄介さは、「セックスワーカーを差別してはいけないし、われわれは差別してない」とかいう公式的な言葉で処理できるもんじゃないとは思いますな。

これが炎上したわけだが、これ以降、同じ話題が定期的に繰り返すように炎上している。

供給側の論理として、ちょっとしたことが搾取だ!という具合に騒ぐネタとみなされる変化を感じずにはいられない。

それはいわゆるクレージークレーマー問題の社会問題化と相関していると言えるだろう。

「高度不信社会」と自力救済2.0

結局のところ、被害の権力化ができる人間が好き勝手出来る時代という「自力救済2.0」の時代が始まったということだ。

そしてもう一つの時代精神「将来不安」と併せて考えると、こういう見方もできるだろう。

将来が不安だから今のフレーム、レジーム、プラットフォームのなかでポジションを失いたくない、という心情だ。

だから防衛的になり攻撃的にもなる人間が増えた。

そして「高度不信社会」だ。
これは政治学者の吉田徹氏が使うキーワードで、政治不信も高いし他人に対する不信も高い状況を指す。

仲間のことを考える、仲間のことを大切にする、という仲間意識の不在を、外側を作ってバッシングすることで埋めることで、仲間意識をでっちあげる。

カール・シュミットの友敵図式そのものだ。

これが「高度不信社会」を駆動しているのだ。

先般の元首相狙撃事件の社会的背景も「高度不信社会」があると考えるとわかりやすい。

残念ながら本邦にはcall & responseという思考の伝統はないがゆえに、「責任」という観念もないのだろう。

だから政治も「やりたいからやる」という姿勢になる。

統治権力への不信が募るのも当たり前だろう。

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