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ステレオタイプは護身のため? 使用済みパンツ漁りと殺人事件に想う

またもプリキュア界隈の話題。

そこで、こういう引用RTをした。

そうしたらRT先でこんなご意見が。

実はヤバい人、という構図に既視感を覚える。
確かに過去、「小学校の保護者会会長」が、その小学校に通う児童を殺すという事件があった。

だからこそ「男」だというだけで疑ってかかるのが"自衛"として正しくなる社会状況と、認知されるのだろう。

こういう話をしていると思い出すのが、弱者男性論だ。

これは社会の「外部」としてのおっさん、それとおっさん叩きにも通じる。

「弱者選びの恣意性」が「左翼のエゴ」と読み替えられている

と指摘したのは宮台真司だったが、その10年近く後に対談相手の東浩紀が

今の日本において「正しさ」とは弱者の味方をすることでしかない

と指摘していたのは偶然にしては出来すぎだろう。

おっさん叩きにしろ弱者男性論にしろ、そして今回の下着漁りにしろ、共通するのは「あんなヒドい連中は自分とは違う」という切断操作である。

そうやって「外部」を作り出し、そこから搾取・収奪を行って、社会のホメオスタシスを維持する、という社会心理的な自己防衛機制が働いている。

「あいつとは違う」「あんな人たちに負けるわけにはいきません」…等々。

しかし、そのようにして切り捨てられた「外部」が大きくなれば大きくなるほど、「社会」そのものが成り立たなくなっていく。

これが社会の分断なのではなかろうか。

その先にあるのは、如何に「外部」へと切り捨てられないための座席争いである。

白饅頭氏は「向社会性」という言い方をしたが、これこそが「外部」へと切り捨てられないための行動であり、まさに座席争いの構図となっている。

そして弱者選びの恣意性と、マイノリティがマジョリティの権益を食っているという被害妄想が合体する。

現状はそういうことなのではなかろうか。

いかに「外部」として見捨てられないように、切り捨てられないようにするか。それは恐怖のトリクルアップだ。

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