NODA・MAP『正三角関係』大阪SkyシアターMBS【欲望という名の…】
見てきました。
※以下、ネタバレのある感想です
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を翻案した作品ですが、私がテネシー・ウィリアムズ好きなので、それに寄った見方をしています。
終戦間近の長崎が舞台でありながら、常に現代の状況へと意識を引き戻させるようなセリフ回しが印象的でした。
芸術と科学と宗教の三者と、そのすべてに対して「クライアント」としてパワーを行使する存在。
この三者と権力との関係が”正しくあってくれ”という作者の願いのようなものを感じました。
竹中直人のラップも良かったです。
そしてなにより、テネシー・ウィリアムズにハマっている身としては「欲望という名の……」の富太郎のセリフや、そこから連なる電車のシーンにテンション上がりまくり。
富太郎と生方莉奈が対峙するシーンは「欲望という名の電車」のスタンリーとブランチを思い起こさせ、だからこそ、スタンリーと違ってあの場で身を退いた富太郎から、粗暴になり切れない繊細な部分を強く印象付けられた気がします。
照明を手で揺らす演出も詩的で美しかった。
在良の設定について
三男の在良が富太郎に恋をする同性愛者として描かれた部分が、そこまで物語の本筋には影響しなかったようにも思い、すこし不思議でした。
ただ、テネシー・ウィリアムズ的に見れば「同性愛者である」と自覚していない人にこそ、異性愛への違和感を抱えながらも社会に抑圧され異性愛者たらんとしている人が存在しているのかも知れず。
グルーシェニカが実在した女性だったのか、それとも花火だったのか、というふわふわとした設定は、富太郎の女性に対する複雑な感情を示していたのかもと思い至りました。
「花火づくりは妄想から始まる」と自らの女遊びを声高に自慢する姿や、グルーシェニカとの恋が破れた時にむせび泣く姿は、芝居の中でも特に芝居がかって見えた部分です。
「あなたを救ってあげる」という生方莉奈からの母親的な好意を拒否した富太郎が罪を犯した後に逃げたのは別の女性…ではなく花火かも知れない。
在良のためらいながらも素朴な告白は、長男として、職人として、男らしさを強要されてきた富太郎の抱える歪さを際立たせるためのものだったようにも思います。
終盤辺りで在良が「キリスト教と花火、どちらも禁止されているという意味では同じ」と言うのに対して、富太郎が「同じではない」と撥ねつけるシーンがありました。
このシーンも、芸術を愛する者と宗教者の対比というだけに留まらない、「富太郎のことを心の中で想い続けてきた在良」と「女性以外を想うことさえ許されない富太郎」の対比のようにも思えます。
打ち上げられない花火は、打ち明けられない話、でもあったのでしょうか。
その上で、同じくらい抑圧されているはずなのに素朴に告白してのけた三男と、逃避先である花火(グルーシェニカ)がどちらも長澤まさみというのは、改めてすごい設定でした。
グルーシェニカと生方莉奈の対決シーンに三男が同席するというのも印象的。同じ顔で自由に美しく振る舞い富太郎に愛される彼女のことを、在良はどんな気持ちで見ていたのだろう。1人2役を同じ顔として見ることは演劇的にナンセンスで無意味なのだろうとは思いつつ、、観劇素人なので。
殺される人とその罪を糾弾する人が1人2役というのも面白かったです。
カラマーゾフの兄弟も読んでみます。
松本潤のファンとしては、富太郎のピュアさに松本潤自身のパーソナリティに近いものを感じて、反射的に愛おしさを覚えました。
戦争における人殺しの罪を問う作品を、99.9で弁護士を演じた松潤がやってるというのも趣深いです。
最後カーテンコールの時に舞台上に残っていた小道具の赤い花を拾って、そして捨てる動作が印象的でした。毎回やってるのかな…?