我慢と世代間ギャップと多様性
実母との会話で、世代間ギャップか、「我慢」についてすれ違う会話があったので、メモとして書き残す。
※60代母(子ども2人、転勤族の妻、専業主婦)と40歳(子ども3人、フリーランス)。
「最近の人」は我慢しない?
我慢しながら過ごしている
60代後半の母の友人は、定年退職したパートナーと夫婦2人、我慢しながらも一緒に過ごしている人もいるとのこと。
思わず、
「我慢しているんだね~」
と突っ込んでしまった。
そして言われた言葉、「最近の人は我慢しないの?」
一般論はわからないけど、私は我慢していることは良いことばかりではないと感じているので、「我慢しないですむ方法を考えたいかな~」と伝えた。
母曰く、「我慢することも大切。すぐに諦めるのではなく、時間をかけて育むことも必要」とのこと。
時間軸を伸ばす
時間軸を伸ばすことで、「我慢」の見方を変えることは大切だと思う。我慢したくないから〇〇、とバッサリ切り捨てるのではなく、時間軸を伸ばし、中長期的な視点で行動を考える。すると、ありたい未来のために必要な我慢も、出てくるかもしれない。
そもそも我慢って必要なのか?
母と話をしていて、そもそもの考え方の根底に違いがありそうだと感じた。
我慢をすることも、時間軸を伸ばして考えることも、悪いとは思わない。しかし、根本的に、「我慢している自分」を感じていながら、本音を話していなかったり、本当はどうしたいを考えていないのではないかと感じた。
「本当はどうしたい?」
を考えた上で、我慢しながら過ごしたいなら、それで良い。しかし、本当はどうしたい?を考えないまま、中長期的視点を持ち我慢して過ごしているのではないか、と感じた。
我慢をしていること自体は、褒められることではない。
我慢した先にどんな未来が待っているか、その未来が自分にとって心地良いものかどうか、それが大切なのだと思う。
「最近の人」と「我慢しない」
「最近の人」で一括りにしてはいけない。最近の人は「色々な人」がいる。
さらに、「本当はどうしたい?」を考えることは、「我慢しない」ということではない。
私のことを考えると、私だって大なり小なり、色々な我慢は抱えている。
しかし、「本当はどうしたい?」と考える中で、
この我慢は本当に必要な我慢か、心地悪くないか、どうにか出来るのではないか、同じ「我慢」をするとしても、自分の気持ちに問いをたてている。
我慢は美徳ではない。
すべてにおいて、対話が出来るわけでもないし、我慢をしないですむわけではないからこそ、我慢しないで済むことは我慢しないように工夫し、ストレスが少ない状態になるようにしている。
最近の人は我慢しない
のではない。我慢することと、我慢しないことを区分けし、自身の本音と向き合おうとしているのではないか。
我慢の多様性
我慢をしないことはワガママではない。
我慢は美徳ではないことを知り、根本解決に向けて、自分の我慢している気持ちと向き合っている。
自分にとっての心地良さ、心地悪さを感じながら、自分サイズの我慢を見つけているのではないかと思う。
私の親世代も、一人一人時代の変化に揉まれながら「我慢」の塩梅を探ってきたはずだ。次の世代も同様に、一人一人模索しながら、自分サイズの我慢を抱えながら過ごしている。
「一般論」で括るのではなく、個別の声として、どんな我慢をしていて、どんな我慢をしていないのか、耳を傾けて欲しいと思った。
多様性を受け入れる難しさ
自分とは違う意見を言われたとき、受け入れるのは簡単ではない。反射的に自分の意見を守るために「でも、、」と否定系にしてしまうこともある。
多様性って難しい。
だからこそ面白いし奥深い。
時代と共に、「我慢」の仕方も変わっているし、人によって様々なので、「そんな意見もあるのね」と受け止めていきたいと感じた。
我慢をしているあなた、本当はどうしたいですか?