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残高は、シュトーレン
僕は27歳で、東京の祖師ヶ谷大蔵という街でぼんやりしていました。
定職にはついていませんでした。もちろん金はありません。一度就職しましたが、そこにいると何かに取り込まれる気がしたのです。しょうがないので日雇いや単発のバイトで食いつなぎます。
ドコモに入った友人が冬のボーナス100万に届かないとぼやいています。もう一人の友人は春に結婚式を挙げるそうです。もう一人の友人は千葉でステンドグラスの工房を開くとのこと。
僕は何処にも行っていません。
一人、アフリカのモーリタニアに行ったまま行方が分からない友人がいました。シンパシーを感じました。でも後日国連の職員に潜り込んでいた事を知りました。何とも言えない気持ちになりました。
それでも結構のんきに暮らしていました。部屋に帰ると大学の後輩が勝手に上がり込んで飲んでいたり、週に2度ほど行くコインランドリーの壁を見つめて悩むふり。家賃は46,000円。祖師ヶ谷大蔵では激安です。金が入るととりあえず目的もなく自堕落に使います。ウーバーイーツ最高。
しかし対岸にあったはずの青春の終わりというものが、少しずつ迫って来ている。それは感じていました。
*
10月でした。
前に仕事をしたデザイン事務所の社長から連絡がありました。食品メーカーがスーパーで配布する販促物で、内容はクリスマス料理のレシピ。冊子で20ページぐらい。一部webに。フードコーディネーターと一緒に作ってくれないか。アートディレクション、ライター、撮影をやって欲しい。25万で。
前職で似たようなことをやっていました。しかし今回は自分が全て仕切ります。結構な仕事量です。おまけにもう10月。リリースは11月初旬。
クライアントである食品メーカー、広告代理店。あいつらの戻しの量を考えると喉を掴まれる気がします。
でも提示された25万は足元を見られた金額だとしても魅力的でした。人間たまには勤勉になるべきです。
3つほど年上のフードコーディネーターの女性はとても魅力的で素敵な笑顔を見せてくれました。髪型はマニッシュショート、ハイトーンのグレージュをダブルにしています。
フードコーディネーターは肩ぐらいの髪をしばって家庭的な雰囲気で、とか勝手にイメージしていました。クールでアンニュイなロックが似合う彼女を見てこの後の仕事が心配になりましたが、そんな心配は全く不要でした。
クリスマスを彩る料理というオーダーだったのですが、案の定すぐに「すべてシュトーレンに」というちゃぶ台返しの指示が飛んできました。馴染みのない単語だったので僕は聞きました。
「シュトーレンってなんですか?」
彼女は何もない冷蔵庫を覗き込む様な顔をして言いました。
「簡単に言うと、バターをこれでもかって練り込んだ生地に、ドライフルーツやマジパンをぎっしり入れた日持ちする硬いパン。時間が経つと馴染んで美味しくなるのよ。クリスマスの一ヶ月くらい前から少しずつ少しずつ食べるの。すぐに全部食べないで計画的にね」
少しずつ、計画的に。
僕は何だか自分の金や時間の使い方を指摘されたみたいで、むずむずしました。
「20ページ、シュトーレンっていけるもんですか?」
彼女はしばらく考えました。
「いけるけど、シュトーレン専門誌になっちゃうよね。スーパーで配るのはハードルが高いかも」
彼女のうつむいた顔に明るいグレージュの髪がかかるのが最高に可愛くて、僕はフルブーストで考えました。
「クライアントに打診しようと思うんですけど、このクライアントって総合食材メーカーだからなんでも扱ってるじゃないですか。その食材で『親子でシュトーレン』ってストーリー仕立てにしませんか? なんかアドベントカレンダーみたいにして」
彼女は「おっ」と言いながら、僕の肩を結構強めに叩いて喜んでくれました。
幸いクライアントはその案に乗ってくれました。
次の日からキッチンスタジオに甘いバターの香りが漂い、シュトーレンが何種類も並びました。彼女は写真が映えるように、他の料理も作りました。ローストビーフ、チキンソテーのトマトソース煮、ハムとチーズのしましまピンチョスなど。
僕は徐々に太り始めました。
彼女の仕事は完璧でした。
「ここまで対象を意識した映えを作って頂けると、作品って感じですね」
「でもこれは私の料理じゃないの。一つのストーリーの果てに出来た料理」
「どういうこと?」
「私含めて、ここにいる人達のいろんなお話が合わさって出来たもの。一人で作って一人で食べるのなら、それは私の物語の料理。でも一人で作ってもそれを二人で食べたら、二人の物語」
彼女は小学校低学年の生徒に教えるように優しく言葉を選んでいます。
「でもここには君と私しかいないんだけどね」
そう言って彼女は楽しそうに笑いました。
料理はまるで関係ない様なものを何かしらの工夫し、掛け合わせる事で作り上げるものなのかと僕は感じていました。それは時間とか気持ちとかそんなものも含めて。
そんな事を考えていると、僕自身何かが変わった気がしますが何が変わったのかはわかりません。でも何かが僕に埋め込まれたのは確かです。
*
キッチンスタジオを出た後は毎日デザイン事務所で深夜まで働きました。事務所のデザイナーの女の子は最近僕に距離を詰めてきます。童顔で可愛らしい子です。なので真夜中ロイヤルホストに行き話をします。全部僕がおごっています。それが楽しいのかと言われるとよくわかりません。まあ、だらだら生きている「証」みたいなものかもしれません。
予想通り相当な直しが来ましたが、コーディネーターの彼女と一緒に仕事をしていると疲れを感じませんでした。とっくに好きになっていましたが、綺麗で可愛くて仕事が出来る彼女は適当に生きている僕にとってかなり敷居が高く、この後『どうこう』という気持ちにはなりません。デザイン事務所の女の子もいるし。まだロイホで飯食っているだけだけど。
10月は嵐の様に過ぎ去り、冊子もwebも全て納品となりました。シュトーレン特集はとても評判がよく、この手の冊子としては異例の増刷がかかりました。デザイン事務所もいい収入になったはずです。僕にもなんだかんだで30万以上入りそうです。
入金は12月第4月曜日、23日です。12月はほとんどバイトもせず、だらだらと適当な生活を送りました。クズ人間に足を踏み入れている僕としては2週間ほど働かずにわずかな金を食いつぶすことが最高の生活だと思っていました。ウーバーイーツ最高。
*
23日。銀行に行きます。口座を確認します。残高4,280円。
まだ振込作業が終わっていないのでしょう。なのでスマホ片手にスタバと公園で時間を潰します。午後3時過ぎれば確認出来るはず。
午後3時。残高4,280円。
デザイン会社の社長に電話します。出ません。この期に及んで僕はまだふわっとしていました。しっかり4,280円を引き出してタバコを買い、レンタルDVDとコミックの延滞を思い出し返しに行きます。タバコと延滞金3,500円。残金780円。Suicaに幾らか残っていたことを今さら思い出し、肉まんを買いました。Suicaの残高は50円ほどになりました。
冬空の下の肉まんは最高です。
その時、辞めた会社の同僚である四谷君から電話が来ました。
「お前、Yスタジオの仕事やってただろ。あそこ飛んだぞ、夜逃げだ、夜逃げ」
夜逃げ?
とりあえず事務所のある神楽坂まで走りました。小田急線とJR飯田橋。運賃はちょうど400円。残金は380円と少し。
でもそんな事考えている場合じゃありません。飯田橋駅を転がる様に抜け出し、神楽坂を人波をぶつかる様にかき分け、小汚い雑居ビルの階段を駆け上ります。
ドアにはお決まりの告知文。
「弊社について東京地方裁判所において破産手続開始の申立が行われ、受理されました。弊社は東京地方裁判所により選任される破産管財人の管理下に入る事になります」
社長にもう一度電話を掛けます。もちろん出ません。デザイナーの女の子にもかけてみます。出ません。連絡をくれた四谷君に電話をしてみます。
「誰もいないだろ。と言うか、お前そこ入っちゃだめだからな」
「あの子どうした?」
「あ、知らなかった? あの子社長の愛人だよ。もしかしたらお前好きだった? 社長この間離婚したから、もしかしたらこの倒産狙ってたんじゃないのか?」
あの愛想のいい女の子が一瞬にしてスライムに置き換わりました。
ふざけんな。
よく考えるとその子のことは好きでもなんでもなかった事に気が付きました。真剣に考えたら『やりたい』わけでもなかった気がします。ロイヤルホストで彼女は僕の話も聞かずに一人で喋ってました。自分の事というより、愚痴しか話してなかった。僕のことなど聞くことはなかった。金を払わず夜逃げした社長の愛人に何やってたんだ。ロイホの金返せ。
金がないと判断力が低下するって話を今さら思い出しました。しょうがねぇな、俺。
心配だったのがフードコーディネーターの彼女に支払われているか、という事でした。電話をすると、10日以上前に全額支払われているとの事。
「お金持ってる? 大丈夫? お金貸そうか? あの仕事結構いい金額だったから」
思いだしました。残金380円。でも確か部屋にあるダッフルコートのポケットに競馬で勝った金を「がさっ」と何千円か入れたこと。それも踏まえて少し見栄を張って丁重に断りました。
彼女にちゃんとお金が渡った事で僕はほっとしていました。
それにしても、この飯田橋から祖師ヶ谷大蔵まで380円では帰れません。途中まで電車に乗る事も考えましたが、380円は残しておきたい。歩いて帰る事にしました。
既に日が暮れた東京の風は冷たかったです。それでも空気は澄んで、景色がくっきりと見えます。街のクリスマスイルミネーションは僕の気持ちと足を前に進ませました。しかし飯田橋から祖師ヶ谷大蔵までは4時間近く。歩きやすいニューバランスを履いてきて本当に良かった。
気持ちが沈まなかった理由はフードコーディネーターの彼女に金が支払われていたこと。
彼女がいくつものシュトーレンを同時に手際よく、まるでオーケストラのティンパニー奏者の様に作り上げる様子が僕の中で響いたのです。
*
貰ったシュトーレンが2切れ残っていたので、それを食べてその日は寝ました。
残念ながらダッフルコートのポケットに金はありませんでした。
銀行口座にも財布にも金はない。もしかしたら、部屋のどこかに100円ぐらい落ちているかもしれない。こんな時にずぼらな性格はいいものです。200円がデスクの下にありました。合計580円。
しかし580円では生きていけない。シュトーレンも食べてしまった。24日クリスマスイブに友人に金を借りるのは気が引ける。
消費者金融も考えました。でもなぜか躊躇しました。昨日彼女の事を考えて、4時間東京を歩いたことが関係している様な気がします。
明日から日払いのバイトをすればいい訳で、何とかなるでしょう。何だかシュトーレンをスムーズに作り上げる彼女に後押しされている気がします。
とりあえず腹が減ったので商店街に行く事にします。
祖師ヶ谷大蔵商店街はクリスマスイブのすごい人混みです。マライヤキャリーや山下達郎がわんわん掛かっています。
さすがに残金580円しかなく、昨日入る予定だった30万以上が消えた事を考えると、今更ですが落ち込みます。
何を喰うか。コーラとヤマザキのスイスロールにします。コーラ500ccで250kcal、スイスロールは1本で1000kcalを超えます。今はカロリーこそ全て。コーラは安い輸入ものに。確かカルディで1本30円だった気がします。
カルディもとんでもない混み様でした。店内にはクリスマスの飾り付けがたくさんされています。狭い通路、天井近くまで積まれた商品。そこに人が密集しています。コーラは確か奥にあるはず。
店の奥でコーラを3本手にし、レジに向かおうとしたのですが、半端ない人で前に進めません。
前から小さな子どもが強引に人をかき分けてきます。思わずよけました。棚にぶつかり、手が滑り、コーラの缶を落としてしまいました。残念なことに輸入物の缶は薄いことが多いです。缶に穴が空きブシュッという音とともに中身が一気に吹き出しました。水道が壊れて道路から噴出している様です。僕は慌ててしゃがみ、手で穴を押さえようとしますが止まりません。周りの商品や床をコーラが思いっきり濡らし、密集した客からは悲鳴が起き、その場から離れようとします。そのうちの一人がワインの棚にぶつかり、しゃがんだ僕の上に何本かの瓶が落ちてきました。
*
記憶はそこで終わっていました。気が付いたら病院のベッド。横にはなぜかフードコーディネーターの彼女がいました。
「あ、気が付いた」
僕は何だかわからず、しばらく呆然としていました。
「あのさ、なんでここにいるんですか、とか聞かないの?」
「なんで僕、ここにいるんですか?」
「カルディで頭打って流血、そのまま気絶して病院に運ばれたの。先生は頭打ってヤバいかなと思ったらしいけど、ただ寝てるだけだって。起きたら帰っていいよって。最近なんかハードに体動かした?」
飯田橋から歩いたとか言う気になりません。
「というか、なんでここにいるんですか」
「お金が全然ない君の財布に私の名刺だけが入ってたの。500円ぐらいしかなかったよ、どうするつもりだったの。病院から電話来た時は何事かと思ったよ」
彼女は上品な赤のタートルネックとグレーのロングスカートがとても似合っていました。24日に病院という場違いな場所に来させてしまった事を申し訳なさを感じながらも、殺風景な夜の病室に彼女がそばにいることに安堵をしていました。僕の服はコーラでベトベトですが。
しかし気になっていることがあります。
「お金、貸してもらえますか」
「いいけど、何に使うかよく考えて。なんかだらだら使いそうじゃない」
「カルディにコーラとかのお金払わなきゃ。他の商品もコーラまみれにしちゃったし」
彼女は僕のことをしばらく見つめ、そしていきなり両手で僕の頭を鷲掴みにし、キスをしました。しかし彼女は思いっきり傷口を掴んだため、僕は悲鳴を上げました。すると彼女は言いました。
「おっきい声出さないの!」
そしてまたキスをしてくれました。今度は傷口を触らぬように。
*
今、僕には2人子供がいます。一人は料理が大好きな男の子、一人はおこずかいをすぐさま全額使う女の子。
そして妻と二人でフードコーディネートの事務所を立ち上げています。妻が言います。
「野良のフードコーディネーターって生きていくのがなかなか難しいから、その人たちがうまく働けるような事務所にしないと」
妻を全面に出し、僕が事務所を廻します。妻に合う媒体を選び、営業も掛けます。また事務所に所属するコーディネーターに合った仕事を配り、僕自身もディレクターとして入ります。
僕は様々な事や人をかけ合わせ、少しだけ時間をかけて何かを作るのが合っているようです。まるでシュトーレンを作る様に。
もうすぐクリスマスです。妻は友人たちに配るシュトーレンを作り始めました。クリスマスはいつも4人で料理をすることにしています。
息子は手際よく牛肉をフライパンで焼き色を付け、ローストビーフを作っています。娘は満面の笑みでマッシュポテトの味見をしています。その量は味見とは思えません。
そして妻は素敵な笑顔で言います。
「カルディに行くのなら、頭、ちゃんと両手で抱えてね」
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