星は届かぬが闇夜の目印
諸般の事由により、全くもって生きづらさを抱えながら進んでいる。
それは、骨の髄まで染み付いたような反射的思考であって、オートマチックな体のこわばりと、知覚と知識の誤配列だ。
今日は本を読んで一つ学んだ。コミュニケーションとは、一方がもう片方を支配する、己の望む方向に持っていくために行われる行為ではないということだ。
本には、親子逆転現象が起きていた家庭で成長した子は、コミュニケーション能力が破壊されていると繰り返し書いてあった。
理解したつもりだったが、コミュニケーションという概念を独自解釈しているために生じている齟齬に気づいた。
どうやら、コミュニケーションとは相手を理解するだけに留まらず、自分を理解されることを相手に許す設計のようだ。
相手の感情を汲み取って意に沿うようなことを言ったり、本心を悟られないように会話しつつ目的に誘導したり、意味のないことを話続けたりすることを指すのではないらしい。
本当の自分が存在していて、その気持ちを理解すること、相手にそれをさせること。それらの許可を何の承諾手順を踏むことなく行うことをコミュニケーションが取れていると表現するようだ。
これまで生きてきて解釈していたコミュニケーションという言葉と、書籍の指すコミュニケーションという言葉の意味が食い違っていることを一読では気づけなかった。なるほど、コミュニケーション能力が破壊されているとはこういうことだ。独自性が普遍性を凌駕する。
また、該当書籍には、親のお守りをして育った子供の心の虚が記載されている。本当の自分を徹底的に意識の俎上に載せないことが唯一の生存戦略だから、意識のある内に本当の自分という概念は存在しない。
そのような状態が続く内に、自分の感情が湧いているような気はするが、それが何なのかを認識出来なくなる。認識によって生存リスクを高めるような悪手は無意識内で避けると決めているからだ。使わない筋肉がどんどん落ちていくように、機能としてどんどん乏しくなる。そうやって自己に渦巻く感情に名前を付けられなくなる状態をアレキサイミアと呼ぶらしい。
本当の自分が存在しないということ、アレキサイミアという状態がどういうことかというと、問われても回答できないということだ。認識の外に追いやっているのでそもそも知覚出来ないし、ぼんやりとした心身の違和感を言語に出来ることを知らない。
意識を圧倒するような違和感、つまり痛いとか怖いとか苦しいとか、感覚が閾値を超えたらようやく意識的に発言出来るようになる。それもある程度までは見てみぬふりをして無かったことにしようとする癖を身に付けているのは、それほど生存戦略が動物的感覚で根付いているせい。
コミュニケーション能力が大切だという表現を見聞きした時、虚のある人間はそれを支配と服従のためのスキルが大切だというメッセージだと思う。成長過程の手本たちがそうしてきたのを見ているからだ。
また、お互いに分かり合うことだと言われても、理解されるような自己を伝えることが大切だという解釈に至る。身近な大人に自分勝手な解釈をされることに慣れているし、その評価に自分を当てはめることに抵理するような自我は意識の外に追いやる努力をしてきた。結果、理解し合うことが大切だと言われて印象に残るのは、見たいものを見ますと言われているような不誠実さだ。
周りの大人よ、コミュニケーションの大切さを説くなら、あなたが工夫して汗をかいて言葉を捻り出すべきだ。大人の権利をふりかざしながら子供の役割を受益することは、ねじれている。
虚が埋まる術を知らないし、自分が存在している感覚はかなり希薄だ。それでも体が生きているし、知識から意識へ揺さぶりをかける環境がある。だから、本当の自分とか、誰かと一緒にいるという感覚は、知識という視覚情報で確認できる夜の目印だ。手が届かなくとも、存在は見えている。その瞬間、内に湧く感覚に、きっと自分が存在していると信じてよい。
参考文献 子供にしがみつく心理(加藤諦三)