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宗教とは(自己肯定感を高める事)


宗教と聞くと、オカルト的ないい加減な、古臭くて信じるに値しない物
と、想っていらっしゃる方も大勢いるのではないでしょうか?
また、「死んだ時の為だけに必要だ。」と思っていませんか?
確かに、一聞して「そんな馬鹿げた事は無い」と思う事も多々ありますし、
商売がらみの宗教もあります。

本来宗教とは人の生きる方向性を決めるものであり、
哲学と同じ意味を持ちます。

人はそれぞれ自分なりの哲学を持って生きています。
それは、「自分自身がどの様に生きていくのか?」
意識する、しないに関わらず哲学を持っているものだ、
と思います。
宗教と哲学との大きな違いは、信仰の対象が有るのが宗教。
無いのが哲学。

宗教は信じるところから始まります。
信じる対象が信仰でありそれが、神であり、仏であり、
その宗教の教義でもあります。
此処に、哲学と宗教の違いがあります。

私達の生活の上で、信じ無ければ生活ができません。
簡単に言えば、医者からもらう薬です。
これを疑い、飲まないでいたならば、病気の改善が無い。
また、レストランに行って、水や料理を出された時に、信じていなければ
食べる事も出来ない。

信じると言う事は、全ての過程を省略します。
出された水の成分を調べたり、出てきた料理の材料や作った時に毒が入っていないかどうかを検証したりはしない。
そのレストラン、及びその作った人を信じて食事を取りますね。

私達の生活は、先ずは信じる事を前提としています。
しかし、何もかも信じて良いのかといえば、答えはNoですね。
信じるものを間違うと騙されてしまう事は、多々ある事です。
信じる物を間違うと不幸は必ずきます。

諺に「イワシの頭も信心から」
と、言うのがありますがそんな馬鹿な事はないです。
宗教も信じる対象を間違えたならば、不幸は起きます。
生きる方向性を決めるのが宗教ならば、宗教とは人にとって
絶対に間違えてはならないものです。
間違ったものを信じてしまったならば、
不幸になるのは確実です。

一つの例として、オオムの事件が挙げられます。
彼達も、麻原を信じてサリンを撒く事に疑問も持たず信じて行動した。
結果、死刑の判決を受けた。
間違った宗教を信じてしまった怖さがあります。

間違いの無い正しい宗教など存在するのか?
と、言う疑問が当然湧いてくるでしょう。

物事を信じる為の判断する基準として、三証と言うのがあります。

それは、文証・理証・現証の三つです。

文証とは、その事についての文章があるか?
という事です。仏教で言うならば経典。
キリスト教ならば、聖書ですね。

理証とは、その物が科学的、道理的に正しいかどうか?
を判断する事です。

現証とは、実際にどの様な効果が現れているのか?
と言う現象の結果です。

簡単に説明しますと、ここに一つの瓶があるとします。
瓶のラベルに何も書いて無かった、不審に想いますが。
ラベルに「風邪薬」と書いてあるならば判断できます。
これが文証です。
次に風邪薬の成分の表示があり、これが風邪の症状を抑える効果を
示したものと判断できればそれを信じる事ができます。
これが、理証です。
そして飲んだ結果風邪が治ったと時この薬の効果があったと判断しますね。
これが現証です。

宗教もこれと同じです。
文証があるかどうか?
文証も無く、訳のわからない事を言う人もいます。

次に道理的に見て正しいかどうかを判断しなけれなりません。

ある宗教では、輸血を禁じているのがあるみたいです。
果たしてそれが道理的に正しいのでしょうか?
また、神の教えで、神に背く者は殺してもいいのでしょうか?

オオムの麻原は、人を殺す事を「ポア」と呼び
「その人を殺す事によって、生命のランクを上げる」と、教えたと聞きました。
それを信じた信者がサリンを撒き多くの人を殺害した。
これは道理にあっていませんね。

「神のお告げを聞いた」と言う人もいます。
ではその神の存在を示す文証があるのかどうか?
その理論は正しいのかどうか?
そしてその結果は?
霊感商法は、文証も理証も無く、現証をのみをうたい商売する。
そんな物に騙せれてはいけません。
三証が揃って初めて信じるに値するかどうかを判断して欲しい。
これは宗教に関わらず、通常の生活でも言えることです。

次に、宗教である以上その宗派の教義が必ずあります。
教義がオカルト的で理解に苦しむのがありますが、
神秘的な物に憧れ、信じてしまいがちな人もいます。
また、目の前の利益を求め、棚ぼた式の努力する事も無く
濡れてに粟 の様な宗教を好む人もいます。

神社に行ってお参りをするのは、
おすがり信仰そのものです。
それが自分の生きる方向性だとしたら、安易であります。

宗教は自分自身の人間性を高め、自分自身を向上させていくのが
本来の宗教だと思います。
であるならば、文証・理証・現証が存在しなければいけません。

私達創価学会は、日蓮大聖人の仏法を信じ、信仰する団体です。

日蓮大聖人は釈迦如来の説いた教えの中で
最高の教えは法華経と悟り多くの御書(文証)を残されました。
また、仏法は科学が進めば進むほど証明されています。

一つは宇宙の広さを概念的に示し、時間の永遠性についても示しています。
経典には宇宙そのものが一つの生命体として説いています。
これを3000年以上前に説いたのです。
望遠鏡もない時に宇宙空間を認識していたのです。
科学が進歩する事で仏法の正しさが証明されています。

キリスト教とは大違いです。
地動説を説いたガリレオは迫害された。
科学が進むとその教義の間違いが発見されるのは、理証に反します。

そして宗教の最も大事な事は、観念論では無く、
実践の中で自分自身がどの様に変わっていったのか!
これが現証です。

今の自分からの脱脚。
弱い自分から強い自分への変身。
そして、人々により良い貢献を目指していけるか!
それを求める自分になれるかどうか。

その様に導いてくれるのがより良い信仰だと思います。

そして、絶対的幸福。
誰人も壊す事の出来ない幸福境界。
それを確立出来るのかどうか!
私はそれを目指して行くのが本当の宗教だと想います。
相対的な幸福感では無く、自分自身の生命から湧き上がる幸福。
それが絶対的幸福です。

これは、自分自身で体得しなければなりません。
レストランに行きメニューを見ていても食べないと、
味もわからないのと同じです。

我々創価学会員は、日蓮大聖人の仏法を学び、実践し、そして自身の仏性の
存在を認識したが故に、その歓びを人に伝えたいと想って行動しています。

宗教の実践として、法を広めていくのが一番大事な事です。
故に私たちは、どの様に想われ嫌われても人に語り、
この宗教を勧めていくのが使命だと感じています。

ただ、無理強いをしてしまった人もいる事について我々は学会員は
猛省するべきです。
あくまでも、信じる信じないのは、
その人(あなた)自身ですから。

最後まで読まれた方々に御礼申し上げます。
もし、不審や疑問がございましたら、コメントにお書きくだされば幸いです。
私の出来る範囲でお答えしていきます。
御精読ありがとうございました。

追伸
この宗教を信じても、直ぐに仏の境涯になるのは難しいです。
唱題行に励み、自身の仏性を信じて、御本尊を信じて実践する中で、
掴んでいくものです。
それには、長い時間を要するかもしれません。
「老婆は一日にて成らず」です。
老婆になるには、長い年月が掛かりますね。

そう言えば、それの似た言葉で
「ローマは一日では成らず」と言うのがありましたね。

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