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【オードリー・タンの思考】オードリー・タンの生い立ち

私が見たオードリー・タン

オードリーは、不思議な魅力の持ち主だ。物腰は柔らかく、垣根が低い。傾聴力や共感力が高く、1を尋ねるだけで500くらいの答えが、しかもこちらの想像を遥かに超えた視点でのアドバイスが返ってくる。とびきりのユーモアを添えて。

恥ずかしながら私の中国語は実践で修得したので相当にひどいものだが、彼女はそんな私の話も忍耐強く聞いてくれる。一度、「何を言っているかわからない(笑)」と言われた時には、「あぁ、遠慮せずストレートに言ってくれた。少しだけ距離が近付いた感じがする」と嬉しかったこともある。

そんなオードリーも、はじめから今の彼女だったわけではない。波乱と希望に満ちたオードリーの生い立ちは、台湾では多くのメディアですでに報道し尽くされたものでもある。だがやはり、日本でもたくさんの方に語り継がれていってほしいと思う。きっと、人や社会が抱える、解決の糸口が見えない悩みに光を差し込んでくれるはずだから。

オードリーの家族

オードリー・タン (唐鳳、Audrey Tang)1981年4月18日 台湾台北市出身

父:唐光華 新聞「中国時報」元副編集長。
母:李雅卿 新聞「中国時報」の元記者、『商業週刊』元副編集長、「種の親子実験小学校」創立者。
弟:唐宗浩 1984年生まれ。台湾国立政治大学理学院応用数学学科卒業。


母親の著書『成長戦争』を手がかりに

オードリーの母・李雅卿(リー・ヤーチン)は、新聞「中国時報」の記者だった人物だ。オードリーが小学校で不登校になった頃に仕事を辞め、自宅での学習に付き添い始めた。そして、オードリーという類まれなギフテッド(Gifted、先天的に突出した才能を持つ人々)を育てた経験から、台湾の伝統的な教育を変えようと、台北市のお隣・新北市の山あいにオルタナティブ教育の実験小学校「種の親子実験小学校(原名:種籽親子實驗小學、ヂォンズチンズスーイエンシャオシュエ)」を設立、教育改革の先駆者となった。

彼女の代表的な著書に、オードリーの成長を綴った手記『成長戦争』(商智文化事業公司)や、一家でドイツに留学した際の見聞録『天天驚喜』(商智文化事業股份有限公司)、そしてオルタナティブ教育(子どもそれぞれの主体性を大切にした、学校教育法で規定されていない方針の教育のこと。代替教育ともいう)についての取り組みが記された『種籽手記』(遠流出版事業股份有限公司)などがある。

私がオードリーの生い立ちについて取材する際、彼女から「この本にすべてがとてもクリアに書かれているから」と、『成長戦争』を参考にするようアドバイスされた。確かに、母親がまだ独身の頃から、夫との出会い、オードリーの誕生、弟の誕生、そしてオードリーが15歳で起業するまでの出来事が鮮やかに描かれている。

母親がこの本を執筆していたちょうどその頃、オードリーは起業で忙しくしていたが、出版社が台湾の教育改革のために本を出そうとしているのは理解していたという。実際に、大学のギフテッド教育の授業ではこの本が必ず読まれるようになり、次の世代の教師たちに影響を与えていった。教育者ではない私にとっても、この読書体験は衝撃的なものだった。一人の母親としてはもちろん、一人の人間としても。そして、台湾のメディアで書かれているオードリーの過去についてのほとんどがこの本を参考にしていたということも、読んで初めてわかったのだった。本書はあいにく絶版だが、書籍のデータのみ紹介しておく。


手記『成長戦争』(著者:李雅卿 出版:商智文化事業公司 初版:1997年5月 頁数:279ページ)
一人の母親が、周囲との摩擦を恐れず、自主教育を広めるために告白する、一人のギフテッドと主流の価値観との争いにおける成長の歴史
※絶版


これから紹介するオードリーの生い立ちは、『成長戦争』から一部を参照・引用しながら日本語に拙訳し、オードリー本人に改めて当時を振り返ってもらったものだ。また、彼女がトランスジェンダーであることを公言し、名前を現在の「オードリー」に変更したのは24 歳の時だが、本書ではわかりやすくするため名前は一貫して「オードリー」に統一、性別にまつわる表記は24歳以前は男性のもの、以後は女性のものとする。

先天性の心臓病

オードリーには、生まれながらにして心臓に疾患があった。

オードリーには、生まれながらにして心臓に疾患があった。医者からは「長期の服薬で心臓が肥大するのを防ぎます。できるだけ泣かないこと、風邪をひかないこと、激しい運動をしないこと。これらに気を付けて過ごし、4歳頃に心臓が手術に耐えられるようになったら、手術しましょう」と言われていた。

大泣きしたり、大笑いして心拍が上がると卒倒してしまうオードリーは、激しい運動をすることもできないまま、幼少期を過ごした。幸いなことに継続した投薬により心臓の肥大は抑えられ、4歳で無事に手術をすることができたが、薬の影響で肝臓がかなり弱ってしまったという。

なお、彼女は12歳でドイツ留学から台湾に戻った際に大きな心臓の手術を受け、リハビリを経て、14歳頃に完治している。

 「以前はジェットコースターにも乗れませんでしたが、手術後に乗ってみたりしましたよ。山にも登ります」

笑顔でそう話してくれた時に生じた感情を、私は今のところまだうまく消化できていない。いつも彼女が「好奇心を持ち続けることが大事」と話しているのを思い出すのが精一杯だった。

天才的な頭脳、周囲との軋轢、いじめ、登校拒否

オードリーが生まれてからも両親は新聞社で働いていたため、彼は同居する父方の祖父・祖母によって育てられた。こういった育てられ方は共働きが当たり前の台湾で、今でも非常によくあることだ。

祖母の話によれば、オードリーは生後8ヵ月で言葉を話し始め、1歳2ヵ月で歩き、1歳半で1度聴いた曲の歌詞をすべて覚えて歌ってしまうほど記憶力が優れていた。3歳頃には百科事典と出合い、1文字1文字覚えてしまうほど夢中になったという。

彼は幼稚園に上がってからも、身体が丈夫でないために動作は遅く、走ったり飛び跳ねたりできなかった。また、他の子どもたちは興味を示さない「思考」などといったことに興味を持つなど、周囲との違いが目立ち始め、次第に周りの子どもたちは「変わってる」と、彼を排除し始める。

ある日、オードリーが幼稚園に小刀を持って行こうとするので母親が理由を尋ねると、「自分を守らなきゃ! いじめてくるクラスメイトがいるんだ。トイレで僕を叩くんだよ」と言ったという。

彼は、幼稚園が好きになれない理由を当時、このように母親に話している。

「皆で同じことをしなければならないから、学校はつまらない。おやつの前に歌を歌ったり、一列に並んで電車になってトイレに行くし。ご飯もお昼寝も、全部皆で同じことをするんだよ」

それでも母親は「これも社会の中における教育」だと、幼稚園に行くよう励ましていた。そして、著書の中でこの時のことを「本当に子どもに申し訳ないことをした」と振り返っている。「当時は、ただ子どもに団体での行動や生活を教えることだけしか考えず、一人一人の子どもの教育ニーズはそれぞれ異なるのだということに気付けなかった」と。

私はインタビューで初めてオードリーに会う前、台湾のインターネット上に書かれていることには一通り目を通していたが、大部分の報道には「オードリー・タンは幼い頃、壮絶ないじめに遭った」と書かれており、取材前から彼女のこれまでの人生がどれだけ苦しいものだったのかに思いを馳せ、勝手に胸が締めつけられるような思いでいた。

ところが、インタビューの場で彼女は笑いながらあっけなくこう言った。

「学校や先生、クラスメイトたちに風評被害があると申し訳ないので、これは絶対に訂正させて頂きたいのですが、私がいじめに遭ったのは小学2年生の1年間だけです。私は3つの幼稚園、6つの小学校、そして中学校は1年間だけと、10年間で10の幼稚園と学校に行っています。何かあったらすぐに転校するので、いじめがずっと続いていたわけではありません。転校の理由は、私自身の適性問題だった部分もあるのです」

では、適性問題とはどのようなものだったのだろう。

母親の著書によれば、小学校1年生の算数の授業で足し算を習う際、教師が「1+1=2」と教えると、オードリーは「それは進数を見るべきです。もし二進数だった場合、1+1は2ではありません!」と発言する……といった状況だったようだ。「小学1年で教えるのは整数と決まっているのに、

いきなり負の概念を持ち込まれると困ります」と教師から苦情を訴えられたというエピソードが書かれている。

以降、算数の授業になると、教師はいつもオードリーに図書館へ行って本を読んでいるように伝えるか、ゴミ捨てなどの雑用を命じたという。その後2年生の時に、彼は〈ギフテッド・クラス〉という、成績が突出した生徒が入るクラスのある学校へ転校をした。だが残念なことに、彼はここで最悪の体験をすることになるのだった。

台湾の伝統的な教育

オードリーはギフテッド・クラスの担任教師が大好きだったが、この頃の学校にはまだ体罰の風習が色濃く残っており、忘れ物の多かった彼は教師から毎日体罰を受けていた。

それでも、彼は母親に向けてこう言っている。

「僕たちの担任の先生は学校で一番いい先生なんだよ。だって先生が体罰に使うのは、一番細い棒なの。他の先生が人を叩いているのを見たけど、皆もっと太い棒を使っているんだよ」

そんな状況を知った母親は、この教師のもとを訪ね、体罰について話し合ったことがある。若く教育熱心なその教師は、「毎日帰宅すると猛烈に後悔してもう二度と体罰はしないと心に誓うのに、翌朝教室に入って子どもたちが騒いでいるのを見ると、静かにさせるのに必死でそれを忘れてしまう」と打ち明けている。

母親の回想によれば、この頃の保護者たちは体罰を許さないどころか、我が子を叩いてくれるよう保護者会議で教師に願い出る者までいたという。母親はこう綴っている。「彼らは子どもを愛していないのではなく、叩くことでこそ子どもをしっかりしつけられると勘違いしていたのです」と。

そんな状況だったから、子どもたちが教師から叩かれることを受け入れ、人を叩くこと自体すら、何とも思わなくなっていくのだった。

母親は、オードリーが身体の動きが特別遅い自分自身を受け入れられなくなるのではないかと心配し、彼が一人一人の長所も短所も受け入れて、人と自分を比較したりすることのないように、「人にはそれぞれ長所がある」と教え続けていた。だからこそ、彼からこう言われた時、返す言葉が見つからなかったという。

「ママ! ママは、人は互いに褒め合うようにと言ったよね。僕は人が縄跳びを100回飛べたら本当にすごいと思うし、走るのが速いクラスメイトのことを頑張れって応援しているよ。でも、どうして僕が算数が得意で、国語が速く書けると、皆は嬉しくないの? 怒るだけじゃなくて、僕のことを叩くの?」

私は、母親の著書を読んで印象深かった点について、いくつかオードリーに質問をしている。その一つが、次のやりとりだ。「一時期、息子はよく私に『どうしてパパとママは子どもを産んだの? どうして僕を産んだの?』と訊くようになりました。私は『なぜって、私たちはあなたが好きだからよ。子どものことが好きなのよ』と答えました。でも彼は『嘘つき!』と言います。その時期、彼が一番よく発した言葉は『嘘つき!』でした。私がこの6~7年間、命を大事にし、人の良い部分に目を向けようと彼に伝え続けた価値観は完全に崩れ、すべて無くなってしまったと思いました」

「この時、どうして『嘘つき!』と言ったのか、覚えていますか?」

私が聞いたオードリーの答えは、実は母親の考えとは違うものだったのかもしれない。それはとても愛と哲学に溢れた答えだった。

「母は私に『私のことが好きだから産んだ』と言いました。でも産む前には自分が私を産むことは知らなかったわけですよね。私は生まれてからずっと身体が弱く、いつもすぐそばに死がありました。生まれた子どもの身体が弱くても、その子のことを好きになるのは分かります。でも、あえて身体が弱い子どもが生まれてくることを望んでいたわけがありませんよね? 選べるのなら、健康に生まれてきてくれることを選んだと思ったのです」

「母は私に、『私のことが好きだから産んだ』と言いました。でも産む前には自分が私という子どもを産むことは知らなかったわけですよね。私は、生まれてからずっと身体が弱く、いつもすぐそばに死がありました。生まれた子どもの身体が弱くても、その子のことを好きになるのはわかります。でも、あえて身体が弱い子どもが生まれてくることを望んでいたわけがありませんよね? 選べるのなら、健康に生まれてきてくれることを選んだはずと思ったのです」

彼女のこの話を聞いて、幼いオードリーがそのように感じていたことに胸が痛む一方、これは幼少期に子どもが抱く疑問としてはごく自然なもののようにも思えた。そして、救われるような気持ちにもなった。彼女の母親が伝え続けたという価値観が、オードリーの中から無くなってしまったわけではないということが、ここで明らかになったからだ。

クラスメイトの「お前が死ねば」という言葉

母親はギフテッド・クラスに入りさえすれば、オードリーの学校での生活はきっと良くなると信じていた。だが現実には、こういった特殊なクラスが設立されたばかりで当時の学校側にノウハウがなかったことも災いし、生徒たちは互いに嫉妬し合い、争ってばかりで、さらに彼を苦しめてしまう。  

あるクラスメイトが彼に放った言葉こそ、当時の教育問題の深刻さを象徴している。

「なんでお前は死んでくれないの? お前が死んだら、僕が一番になれるのに」

この恐ろしい言葉を発したクラスメイトの父親は、自分の息子が1位の成績を取れないと体罰を与えていたのだった。

「私が転校した後、このクラスメイトは本当に1位になったかもしれません。でもそれは、その子どもの学力が上がって1位になったわけではなく、1位がいなくなったから自分が1位になったというだけなんですよね」

オードリーは当時を振り返り、悲しげに笑う。

「でもこれは、その子が悪いわけではありません。7、8歳の子どもが生まれながらにして自分から好んでクラスメイトをいじめたりするはずはないのです。これは構造の問題です。当時の教育は子どもたちを比較し、競争させるものでした。だから保護者たちも自分の子どもを他の子どもたちと比べる。最後に最もその影響を受けるのは、子どもたちなのです。私は小学2年生の頃に半年間休学している間、この道理に気づきました」

私は、ただ頷くことしかできなかった。小学2年生で、自分が日常的にひどいいじめに遭い、クラスメイトから「死ね」と言われた時に、こんな風に状況分析できるなんて。だが、傷を負ったオードリーの心はどうやって癒せばいいのだろうと、頭が真っ白になった。

小学校を休学、そして世界との絶交

ある日、小テストの時間にクラスメイトからカンニングを要求され、それを拒否したオードリーは、4〜5人に追いかけられ、腹部を蹴り上げられて気絶してしまう。その夜、シャワーを浴びている時に彼は母親を呼び、黒くあざになった腹部を見せて、「ママ、見て。これでもママは、まだ学校に行けって言うの?」と訴えた。驚いた母親はついに「もう行かなくていいよ、家にいなさい」と返事をした。

この頃のオードリーは、自殺願望を持ち始めるほど追い詰められていたため、母親はどこかに出かける際には絶対自分に知らせるよう再三言って聞かせていた。だがある時突然、彼は姿を消してしまう。必死で探し、街をさまよう我が子の姿を見つけて家に連れ帰った母親は、たまたま手に持っていた竹のフォークで彼の身体を叩きながら、「どうしてそんなことしたの? どうしてお母さんのそばを離れたの!」と崩れ落ち、子どものように号泣した。

母親はその時のことをこう綴っている。

「彼はきっと、私が彼を叩くなんて思いもよらなかったでしょう。あの時の私を見つめた眼差しを、私は生涯忘れられません。あんなにぽっかりと無表情な――」

「家庭大戦」の始まり

こうして、失意に陥ったオードリーをなんとか救い留めた母親ではあったが、彼の休学に対し、大好きな夫や同居している舅・姑からも大反対を受け、「家庭大戦」が始まる。夫とは毎日口論し、毎夜悪夢にうなされるオードリーを抱いて眠り、それまで関係の良かった姑からも実家に帰って暮らすよう言われるなど、辛い日々が続く。

一方で、オードリー本人もまた、辛い日々を過ごしていた。祖母から「すべての人が学校に行っているのに、なぜお前だけが行かないんだい?」と訊かれた彼は、「おばあちゃん、もしすべての人が死んだら、僕も自殺しなくちゃいけないの?」と答えたという。

オードリーは、当時を振り返ってこう話してくれた。

「当時の教師は、『レジリエンスを育てなければならない』と言いました。悪い状況になっても、自らで克服する力のことです。また、台湾には『苦労を糧にする』という諺もあります。ですが、耐性をつけるために我慢することと、その苦しみの奴隷になるということは、非常に区別が付けづらいのです。『学習性無力感』といって、何もできることがないのだという感覚を一度背負ってしまうと、これから先にもし世界の不公平なことを変えられるチャンスが訪れても、籠に長い間閉じ込められた鳥が飛び立てなくなってしまうように、何もできなくなってしまう。

この時の私は、その極限を超えていました。筋肉を鍛えすぎると怪我をして、靭帯や骨を損傷すると一生回復するのは難しくなるように、当時の学校の状況は、私の極限を超えていたのです」

父親の“撤退”

この頃から、オードリーは父親に対して反抗的な態度を取るようになる

「その頃の私の態度を『反抗期だった』と表現したくなるかもしれませんが、当時はまだ9歳で、そういった時期ではありません。また、私は父を不快に感じ、彼に対して反抗的な態度を取っていましたが、父以外の同居している家族を不快だと感じることはありませんでした。そして、この感情はその時期が過ぎ去れば治まるという類のものではなかったので、『反抗期』と呼べるものではありません。

ではなぜ反抗的な態度を取っていたのか? その理由ははっきりしています。一人の人間が『痛い』と思うのは現象であって、それを体験した人のみが語る資格のあるものであり、他の人が『それは痛くない』と言うことはできないのだということです。ですから、当時の父が私に『学校に行くことはそんなに辛くない』として、学校に行き続けるよう言ったことは矛盾していました。私は絶対にそのことを彼に知らせる必要があったのです」

オードリーは当時をこのように振り返る。だがこの時点でまだそのことに気が付いていなかった父親は、大胆な行動に出る。妻に対して「僕は行くよ! 子どもたちのことは任せるよ。これからは君がすべての責任を負ってくれ」と言い放って、ドイツの大学院へ留学してしまうのだ。この信じられない発言に驚いたのは私だけでなく、母親も怒りを隠せなかったようだ。だがその一方で、「私たちの、こののっぴきならない状況において、彼はできることはもうすべてやり尽くしてしまった。“撤退する〟という知恵を発揮することで、父子の衝突をこれ以上増やさないようにしたのだと理解した」と綴っている。

素晴らしい教育者たちとの出会い

父親がドイツに旅立った後、母親はオードリーの心を癒すことに集中する。その過程で数々の優れた教育者たちと出会い、彼は救われていく。

当時、国立台湾師範大学に在籍していた楊文貴(ヤン・ウェングェイ)教授は、オードリーと友人のように何でも話し、母親に今の彼に何が必要なのかをアドバイスした。

台湾の最高学府・国立台湾大学でギフテッドについて研究していた朱建正(ヂュー・ジエンゼン)教授は、オードリーと初めて会うや否や、これからは毎週2時間、マンツーマンで数学を教えようと告げる。母親の言葉を借りれば、この朱教授こそ、父親が海外留学で不在にしていた時間に“教父〟の役割を担ってくれた人物だ。また、台湾における児童哲学の草分けである毛毛蟲(マオマオツォン)児童哲学基金会の陳鴻銘(チェン・ホンミン)は、全校生徒が60~70人しかいない直潭(ヂィータン)小学校へ行ってみたらどうかと母親にアドバイスし、紹介までしてくれた。

当時小学4年生だったオードリーは、直潭小学校校長の素晴らしい配慮により、6年生クラスに飛び級させてもらう。しかも週に3日だけ登校し友達と親交を深めればよく、他の日は小学校ではなく、台湾大学や、師範大学、毛毛蟲児童哲学基金会などに行けるよう取り計らってくれた。こうした経験が、中学中退後の彼の自主学習の基礎体験になっている。

その頃、師範大学・楊文貴教授のアドバイスにより、1年間に中学3年間で習う数学の内容をオードリーに教えてくれたのが、同大学の陳俊瑜(チェン・ジュンユー)教授だった。母親は毎週3日の午後をその授業に行くようスケジュールしていたが、彼らはその日やることをすぐに終えてしまうと、麻雀を打ったり、パソコンで遊んだり、台北の秋葉原と呼ばれる光華商場へ繰り出したり、女の子に夢中になったりと、大学生がすることはすべてし尽くしたという。母親もまた、オードリーが直潭小学校で過ごした一年間を「母子にとって黄金の歳月」だったと振り返っている。

父親との和解

ドイツに留学中の父親は、エアメールで妻と互いの状況を細かく報告し合っていた。同時に、二人の息子たちにもドイツで得た見聞を知らせていた。ベルリンの壁が取り壊された時(1989年)には現地に赴き、撮った写真を送ってくれた。そのあたりから、父子の対話が息を吹き返したのだ。

「あの頃から、父の態度は変わりました。圧迫感を伴いながら『あなたが感じていることに意味は無い』といったことを言わなくなりました」とオードリーは当時を振り返る。

「誰かに自分の感じたことを肯定してもらうのは、とても大切なことです。人間の感情とはとても複雑で、すべてを言葉にして話したり書いたりすることは難しいからです。だからこの頃の私は、どんな経験をしてどんなことを感じたのかということを、うまく言葉にできなかったり、表現できなかったとしても、ただ﹃あなたがそう感じたことは、本当のことだ』と言ってくれる人が必要でした。感じたことを否定されないことでこそ、私の感受性は少しずつバランスを取り戻すことができました。もしずっと否定されていたら、私は外の世界とコミュニケーションが取れなくなってしまっていたでしょう」

「だから、母親が私の感情を肯定しようとしてくれたことは、とても素晴らしいことでした」と。

現在のオードリーが、常にすべての人に寄り添う姿勢を大事にしたり、社会的弱者や声の小さい人の意見を取りこぼさないように気を配っていることは、決してトランスジェンダーだからというだけでなく、彼女の過去のすべてに背景があると、私は受け取っている。

ドイツ留学

6年生に飛び級していたオードリーの学年が卒業を控え、両親がこれからどうするか悩んでいた時のこと。師範大学の楊文貴教授から「いっそのこと、父親のいるドイツで暮らしてみてはどうか?」という提案を受ける。そして本当に母親は息子二人を連れ、夫の住むドイツへ旅立つのだった。

こうしてまた、一家4人で過ごすこととなった。ドイツでの暮らしはとても楽しかったようで、その生き生きとした見聞録は母親の著書『天天驚喜』にまとめられている。

オードリーはその後、ドイツで住んでいたエリアで最もハイレベルな中学校への入学を外国人として初めて認められる。その後、ドイツで知り合った友人から彼をアメリカへ連れて行こうという誘いも受け、両親は嬉しい悩みに心を迷わせていた。

そんな矢先、オードリーの心臓に再び異変が起きてしまう。身体の急速な成長で、接合していた部分が裂けてしまったのだ。キッチンで入院の準備をしていた母親に、オードリーは冷静にこう伝える。

「お母さん、おばさん(アメリカ行きの話をしていた母の友人)との会話も、お父さんとの会話も聞こえたよ。あのね、僕はアメリカにも行かないし、ドイツにも残らない。台湾に帰るよ。僕は自分の土地で育ちたいんだ」

母親は驚きのあまり、手に持っていた包丁を落としそうになりながら言う。

「あなた何を言ってるの? すべての道は手配されたのよ。今、あなたは台湾に帰るって言ったの? 何を冗談言ってるの?」

オードリーは冗談を言っている様子ではなかった。

「ドイツに来たのは、台湾に僕が行ける小学校が無かったから、お父さんの勉強に付き添うためなんだよね? ついでに外の世界を見ようって。でもそれももう終わったよ。お母さんたちは僕をドイツに留めるだけじゃなく、アメリカに送り出そうとまでしているみたいだけど、じゃあ、僕はいったいいつになったら自分の国に戻れるの?」

母親は彼の目を真っすぐ見ながら声を荒げた。

「あんな国、戻らなくてもいいでしょう! あなたが戻れば小学6年生で、すぐに中学校に上がるのよ。中学校がどんなに恐ろしいところか、あなた知っているの? もう十分よ。私は戻らない!」

彼は言った。

「お母さん、僕が台湾にいた時、2年飛び級して6年生のクラスで勉強したでしょう。その頃いつも、僕が何か道理を話しても、周囲に通じていないと思っていたんだ。でも、今ドイツでは1学年落としているのに、クラスメイトが自分より成熟していると感じるんだ。僕よりよっぽどいろんなことができるんだよ。ドイツの子どもたちが僕より賢いわけではないし、弟や台湾の子どもたちより賢いというわけでもないんだけど、でも彼らは僕たちより自信に満ちていて、僕たちより成熟している。僕はいつも思うんだ。どうして台湾の子どもたちはあんな風に成長して、ドイツの子どもたちはこんな風に成長できるんだろうって。僕は帰るよ。台湾に帰って教育改革をするんだ!」

母親は息子の話を聞いて、恥ずかしくて仕方がなかった。

「11歳の子どもが台湾に戻って教育改革をすると言っている! それなのに40歳の母親は、母国から逃げると言っている。永遠に戻りたくないなどと……」

母親と父親はその日の夜を一睡もせずに過ごし、2日後には母親とオードリー、弟の3人分の飛行機のチケットを取り、台湾に戻ったのだった。

そして、生後2ヵ月目から彼を診てくれている担当主治医の手により、手術を受けたオードリーの心臓は、大幅に回復する。

ここで誰もが疑問に思うのが、この時、なぜオードリーは台湾に戻ることを望んだのだろうか、ということだろう。彼女の答えはこうだった。

「医療技術が発達していますから、その時の心臓の手術はほぼ失敗する可能性は無いと言えましたが、万が一、何かの合併症が起こったりした場合、私は死んでもおかしくない状況でした。もし死ぬなら、生まれたところで死ぬ方が人間は安心することができます。そしてもし手術が成功して死ななかったら、そこから私はもう身体の弱いことを心配しなくてよくなります。生まれ変わったようなものです。そこから始まる“身体が弱くない〟人生で、自分が過去に受けた仕打ちに対して何か未来で貢献できないかと考えた時、自分はその辛さを知っているから、もう他の子どもたちが同じような思いをしなくて済むようにできることがあると思いました。台湾は、自分が貢献できる場所だということです」

中学中退

台湾に戻ったオードリーは中学に通うのを途中でやめて、全台湾の小中高生が参加する科学コンクール「科展」に向けた自宅学習に切り替えていた。そして、科展の応用科学部門で1位を取った彼は、台湾で最も学位の高い高校に無受験で進学できる特権を得た。当時通っていた中学の校長は彼にこう言って、高校進学をすすめる。

「あなたが憧れるアメリカの有名大学の教授と一緒に仕事をするには、良い大学に入らなければ。そのためには良い高校に行く必要がある。あと10年は学校で勉強すべきでしょう」

しかしその時すでに、オードリーはアメリカの大学教授らとインターネットを通じて直接やりとりしていた。彼はそのメールの中身を見せ、「その教授たちとはもうすでに一緒に仕事をしています。

それでも高校へ行く意味とはなんでしょうか」と問いかけた。すると校長は1、2分黙った後に「もう学校に来なくていいよ」と言ったのだった。

「校長は私を守ってくれたのです。当時は義務教育の中学に通わないと、罰金を科せられました。彼は監査が入ったときに、私が学校に来ていることにして、責任を負ってくれた。そのおかげで私は中学2年生で起業できました。ですから、私は官僚制のフレキシブルさをいつも強く信じています」

確かなデータや根拠を元に議論すれば、人は話し合える。そんな信念を持つオードリーの原体験は、ここにあるのだった。

自分の中の異なる個性を統合

中学3年生の時のこと。オードリーは母親に「閉じ籠もれる場所に行きたい」と告げる。聞けば、「自分の中には、日常生活をしている“ 宗漢(ゾンハン。オードリーの以前の名前)”、詩を描いている時の“ 天風(ティェンフォン)”、そしてパソコンの世界にいる“Audery Tang(オードリー・タン)”という3つの人格がいる。それらのまったく違う個性が身体の中で調和していない。だから静かな場所へ行って、しっかり整理したい」と答えた。

そしてオードリーは中学の校長を訪ね、「今は不安定な状態だから」と2週間の長期休暇を願い出る。

「足りなかったら1~2ヵ月くらい延ばしたい」と付け加えることも忘れなかった。校長は説明を聞くと、「この子は木のように速く成長するのだ、静かによく考えたいと言っているのだから行かせてあげよう」と考え、手を振りながら「日数が足りなかったらまた話そう」と見送ってくれた。

「半径50メートル以内に誰も人がいない場所」という希望条件を満たす場所として、自然豊かな烏來(ウーライ)の小屋を借り、一人でそこに籠ったオードリーは、母親がまとめて置いていってくれた食糧を食べながら、数日間を過ごした。

彼女は当時をこのように振り返る。
「私にとって、詩やプログラムを書くことは創作で、私を通してこの世界に生まれるものでした。それをする時の私と、人と楽しくおしゃべりする時の私はまったく違う状態で、当時は切り替えがうまくできていませんでした。それにまだインターネットができたばかりだったので、インターネット上と実際に対面した時ではコミュニケーションの方法が違っていたのです。

当時のネット文化は、海外の国の文化をベースにしたインターネット独自のものでした。ですからその文化の中の表現方法で自分の周囲に接すると、皆からはおかしく思われる。その逆も然りといった状況でした。この時は『微軟陰謀(ウェイルゥアン・インモゥ。日本語では「マイクロソフトの陰謀」という意味。著者:單中杰、戴凱序 出版:資訊人文化事業公司)』という一冊の本(筆者補足:オードリー自身が起業後、出版に携わった)を持って行き、何度も読んで過ごしました。その本には、二人の作者がネット文化と現実世界での生活とを結合させる試みについて書かれていました。彼らは自分たちがそれに成功した体験を綴っていたのです」

こうして、彼は本を読みながら人格の統合に成功する。

「通常であれば、そういったことはカウンセラーなどの精神医学の専門家の助けを得ながら行われることが多いのに、あなたは一人で実施したのですね」と私が言うと、「そうですね、だから本も一種の専門家だと言っていいでしょう」と答えた。

母親は、家に帰ってきた後の彼は「耳識(にしき。聴く心)が全開」になっただけでなく、柔らかく、まるで女性のように、人が変わったように感じたと書いている。

この時に人格を統合したことと、トランスジェンダーになったことには何か関係があるのかという問いへの、オードリーの答えはこうだった。

「日常生活において、社会は私たちに性別による違いを期待するかもしれません。しかし、インターネットの世界におけるコミュニケーションや、プログラムを書くような創作において、性別とは何の意味も持たないだけではなく、事実上自分に制限をかけることにもなり得るのです。ただ、この時から私は人の話を聞くようになりました。以前は人と話していても私が話していることのほうが多かったのですが、この時から私は少し話したら一度ストップして、相手の話をできるだけ完全な形で聞こうとするようになったんです。

それは、自分が人を説得したり、誰かに影響を与える必要はないのだと考えるようになったからです。社会の中には『オーナーらしさ』とか『一家の主』といった、人それぞれが演じるべき役割があると思っていましたが、インターネットの世界にそんなものは一切ありませんでした。ここでは誰もが平等で、社会のシナリオに制限されることもありません。

インターネットの普及に伴い、今後はこのような文化が主流になっていくと思ったので、その時から私は、自分に複数の側面があるかのように装うのをやめました。たとえ人と違っても、このままの自分を保てばいいと。自分の内側と外側を一致させたと言っていいでしょう。だから、たとえインターネットの文化になじみのない誰かが、私に社会上のシナリオを演じるよう求めてきても、私は逆に、この平等で制限の無い新しい文化を紹介したいと思ったのです」

15歳で起業

校長から学校に来なくてもいいとの許しを得たことで、15歳のオードリーは友人たちとIT企業〈資訊人文化事業公司〉を起業する。インターネット関連の書籍を出版したり、検索をアシストするソフトウェア〈搜尋快手(ソウシュンクゥァイショウ) 英語名:FusionSearch〉を開発し、わずか3~4年の間に全世界で約800万セットを販売。2005年にプログラミング言語〈Perl〉がバージョン5から6に移行するのに大きく貢献し、33歳で現場から引退した後は、米・アップル社や台湾の電気製品メーカーBenQ の顧問を歴任。台湾のIT界に広くその名を知られ、「ITの神」と呼ばれるようになる。

トランスジェンダーを明かす

オードリーがトランスジェンダーであることを自らのブログ上で明かしたのは、彼女が24歳の時だった。名前も男性風の「唐宗漢」から女性風の「唐鳳(オードリー・タン)」に変更している。

当時のブログから一部を抜粋し、拙訳して以下に引用する。

・4つの名前(オリジナル╱新しい中国語╱英語)は、私のWikipedia のページに掲載されています。/ All four names (original/new * Chinese/English) are listed on the Wikipedia page about me.

・中華民国の身分証とパスポートの中国語および英語の名前を変更しました(そうです、.tw ではこのようなことが行われます)。ですから今後は、コピーライトを含む法的な書類も、新しい名前に移行することが必要です。
/ The new names had replaced original ones in my passport and national ID card (yes, .tw does have such things), so legal documents -- including copyright notices -- need to carry the new name.

・性別の変更について話すと、私は長年に亘って現実から隠れてネットの世界に住んでいました。頭では私が女性であることを知っていながら、社会の期待からダメージを受け、トランスジェンダーによくある状況ですが、強い不安感があるために、他の人に会ったり、関係を築くことが難しくなっていました。
/ About the gender change: I've been shutting Reality off and lived almost exclusively on the net for many years, because my brain knows for sure that I'm a woman, but the social expectation demanded otherwise -- a classic transgender situation that caused high background anxiety, making it difficult for me to meet and relate to other people.

・多くの人々(私の恋人/パートナー、数名の〈Camel〉や〈Lambda〉の友人たち、家族、本当の世界の友人たち)のサポートのもと、私は自分の外見を自分のイメージと調和させることにしました。
/ With love and support from many people (my lover/partner, several camelfolks and lambdafolks, my family, a few real-world friends), I decided to reconcile my outward appearance with my self image.

・カウンセリングといくつかのマイナーな操作、見た目の調整の後、状況は大幅に改善されました。これからもより多くの手術が期待されます。
/ Now things had improved a lot after a few minor operations, adjustments in appearance, as well as counseling; more surgeries are expected in the future.

・このような状況ですので、話や書き言葉で性別特有の言い回しが必要な際には、過去、現在、未来においても、私は女性の方を望みます。ご理解ありがとうございます。
As such, for people writing or speaking in languages that have gender-specific pronouns, I would very much prefer female pronouns for all of past, present and future tenses. Thanks for your understanding. :-)

引用:https://pugs.blogs.com/audrey/2005/12/runtime_typecas.html

私が「あなたはトランスジェンダーとして世界初の閣僚と言われています。自分がトランスジェンダーだと気付き始めたのはいつ頃のことですか?」「トランスジェンダーであることは、あなたの仕事に影響を与えましたか?」と訊いた時、彼女はこう答えている。

20歳の頃に男性ホルモンの濃度を検査して、だいたい男女の中間だとわかった時です。両親が『男性はこう、女性はこうあるべき』という教育をしなかったので、私はずっと性別に関して特定の認識がありませんでした。12歳の頃に出合ったインターネットの世界でも、性別について名乗る必要も、訊かれることもなかったですし。10代で男性の、20代で女性の思春期も経験しました。自分が男性か女性のどちらかに属する存在だとは思っていないのです」

「トランスジェンダーであることによって、物事を考える時に男女という枠に囚われずにいられるから、大半の人よりも自由度が高いんですね。すべての立場に寄り添えるという良さもあります」

詳しくは次章で後述するが、この後、シビックハッカー・コミュニティで〈g0v〉を立ち上げた高嘉良(ガオ・チャーリャン)らと出会い、2014年の〈ひまわり学生運動〉で活躍した彼女は、それまで勤めていた米・アップル社のコンサルタントなどを辞めてビジネスの一線から退き、公益事業に身を投じていく。

オードリーにとっての家族

入閣前のオードリーの過去を振り返ったうえで改めて、オードリーにとっての家族がどのような存在なのか語ってもらった。この章の締め括りとして紹介したい。

「父は、私にある『姿勢』を教えてくれました。それは、相手がどのような権威であっても、額面通りに受け取らず、まずなぜそのような権威があるのかを相手自身に訊くのだということです。どのような権威も疑っていいのだと。そして相手が一見、筋の通ったことを言っているように見えたとしても、攻撃するのではなく『その前提は何なのか?』という問いを投げかけることもできるということです。そのため、私は幼い頃から父と話し合いをする時にはいわゆるソクラテス式の対話法を用いてきました。

自分にこのような視点があるだけで、他人からあらゆる『縛り』を受けることがなくなります。これはまるでワクチンや抗体のようなものです。おかげで私は絶対に、誰かを盲目的に信じる『狂信者』になることはありません。これは教育上で私が受けた非常に重要な影響です」

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上の写真:父親の唐光華と幼少のオードリー。(提供:唐光華/オードリー・タン)

「母からは、コミュニケーションと、伝えることの大切さを教わりました。母は言語表現の能力に優れた人で、一般的にわかりにくい物事でも、彼女が文章にすると、誰もが理解できるようになるのです。彼女にとってそれは簡単なことですが、これは容易なことではありません。私は、自分の感じたことを文字にして伝えることで、自分にとって意義のあるものが、他の皆にも意義を感じてもらえるものになり得ることを教わりました」

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上の写真:母の李雅卿はいつもオードリーに本を読んで聞かせていた。オードリーのお気に入りはロングセラーの児童向け百科事典『漢聲小百科』。(提供:唐光華/オードリー・タン)

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上の写真:母の李雅卿は、オードリーという類まれなギフテッドを育てた経験を元に、現在の台湾の教育界の変革に大きな貢献をし続けている。(提供:唐光華/オードリー・タン)

 「弟がいてくれたおかげで、私は明るくなることができました。私は小さい頃から身体が非常に弱かったけれど、彼と一緒に育ったことで発見できたことがあります。『身体が健康な子どもというのは、見知らぬ人や環境に出合った時、まず観察して自分を傷つけないか確かめたり、身体が耐えられるかどうかを確認しなくても、とても嬉しい気持ちでそこに飛び込んでいけるし、付き合うことができるのだ』ということです。弟は私に、見知らぬ人を信じることは悪いことではなく、良いことだと示してくれました」

「祖父と祖母は、私が幼かった頃、面倒を見てくれました。祖父は四川から台湾に来て、祖母は台湾の彰化(ジャンホワ)県で生まれ育った人です。祖父は四川訛なまりの中国語を話しましたし、祖母は台湾語を話しました。当時、私の両親は私がそれら両方を話せるようになることを望んだのですが、小学校に上がると、学校では台湾語が禁止されていたため、私の台湾語は6歳以降上達していません。これは非常に残念なことですが、私たちや私の一世代上は皆がこのような状況です(筆者補足:現在は〈郷土の言語〉という授業があり、子どもたちは台湾語を選択して習うことができる)。

祖母は四川から台湾に来た祖父と結婚した後、「眷村(けんそん)」と呼ばれる外省人(1945年の第二次世界大戦終戦以降に中国大陸から台湾に定住した人)が暮らすエリアで生活していました。彼らが結婚したのはちょうど台湾で二二八事件(1947年)が起こった2、3年後でしたから、本省人(外省人が定住する以前から台湾に住んでいる人)と外省人の関係が最も悪かった頃だったので、周囲から歓迎されるような結婚ではありませんでした。

二人の共通点は、敬虔なカトリック信者だったことです。私自身も幼い頃から祖母が祈りを唱えるのを聞き、ロザリオの数珠を数えて育ちました。祖母は私に、聖書の教えを言い聞かせました。何ごとも許し、信じ、希望を持つこと。どのような背景の人であっても、たとえ彼らとわかり合えなくても、主から見たら皆が平等であり、善悪の区別は無いといったことです。これらも、私に大きな影響を与えています」

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上の写真:1995年、オードリーは全台湾の小中高生が参加する科学コンクール「科展」に『電腦哲學家』という作品で参加、第1位に。隣は父方の祖母・蔡雅寶(ツァイ・ヤーバオ)。オードリーはデジタル担当大臣となった今でも、政策のわかりやすさなどについて祖母に相談することがある。(提供:唐光華/オードリー・タン)

オードリーは、両親とともに台湾の教育改革に携わってきたことについて、こう話す。

「何か不快なことがあった時、それに対抗したり、逃げるのは生物の本能です。それが見るからに強大で、脅威を感じるものであれば、生物の主な反応は『戦うか、逃げるか』ですよね。ですがその他にも、『その環境を自ら変えにいくことで、未来に同じことが発生しないようにする』という新しい方法があります。8歳の頃に私をいじめたクラスメイトたちは、生まれながらに人をいじめるのが好きだったわけでも、品格が無かったわけでもありません。テストの点数に本来どういった意味があるのか、知っていたはずもありません。すべては家庭でそう仕向けられてしまったのです。これは構造的な問題ですから、いじめた人の名前をさらしたり、辱めたりしても何も良いことはありません。

また同じようなことが起きてしまうからです。

私はその後、2015年に教育部(日本の文部科学省に相当)の教育課程発展委員会で『国民基本教育課程要綱(日本の学習指導要領のこと。第3章で後述)』の改定に関わった際、『個別化学習計画(Individualized Educational Program 略称:IEP)』であれば、子どもたちは誰もが1位になれると訴えました。いじめる側も、いじめられる側も、皆の学習計画はそれぞれ違うはずです。

違うのなら、誰が良くて誰が悪いという区別は必要ありません。未来には、誰かの成績が良いからといって家で責められたり、いじめられたりといった状況がなくなるのです。

母がオルタナティブ教育を実践する小学校『種の親子実験小学校』を作ったのも、父が地域コミュニティ大学を作ったのも(筆者補足:父親の唐光華は台湾に戻ったのちの1998年、生涯学習の場として台湾で初めてとなる「文山社區大學」を設立している)、私が学習指導要領の改定に参加したのも、この構造を変え、一人でも私と同じような辛い思いをする人が減りますようにという思いで行ったことです。家族とは、今でもオルタナティブ教育や生涯学習、国民教育はどのように連携できるかなどといったことを話し合っていますよ」

「今、そうして一緒に話し合えることを、ご両親は喜んでくださっていますか?」と私が訊くと、彼女はいつものように穏やかに「ええ、喜んでくれていますよ」と答えてくれた。


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近藤弥生子 | 台湾在住ノンフィクションライター
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