見出し画像

おわりに | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の「おわりに」です。

※ 原文内容の事実確認による検証・訂正などはせず、そのまま記載しています。

(訳注:作者のツァイ・ヤーバオさんと、夫の唐本昌さん)

 私は小さい頃から物語を聞くのが好きでした。

 4歳の頃、よく父方・母方それぞれの祖母に映画館に連れて行ってもらったのを覚えています。当時の映画は音声がなく、そばに解説の人がいたのが面白かったです。

 5、6歳頃から小学校のクラスメイトに、グリム童話、シンデレラ、裸の王様、白雪姫、嘘をつく子供(訳注:イソップ童話)、ラプンツェルといった世界の名作童話シリーズ全巻を借りて読み始めました。そのほかに、名前は忘れてしまいましたが、日本語の本もありました。

 本を貸してくれたクラスメイトの葉さんのお父さんは和美鎮で名の知れた医者で、良い本であればすぐに子どもに買い与えていました。そのおかげで私も本を読む楽しさを知ることができたのです。

 私と父方の祖母は、私が嫁ぐまで非常に長い時間を一緒に過ごしました。

 祖母は四書(訳注:中国の伝統文化における古典。『大学』『中庸』『論語』『孟子』を指す)の薫陶を得た古い時代の女性でした。祖母のいとこ、つまり私にとっての伯母が私たち蔡家に嫁いだ際に付き添いでやって来て、その二年後に私の祖父・圓房と結婚したそうです。このことは、祖母が後に私たち子孫に伝えてくれました。

 祖母は蔡家に嫁入りする前、祖父の兄に四書を習いました。
 祖父の兄は「文開書院」の院長でした。祖母は孫娘たちをとても可愛がり、道理を教える時にはいつも格言を用いて導いてくれました。

鹿港の《文開書院》は1985年より彰化県の古跡に指定され、参観が可能。
(※筆者撮影、本書には収録されていません。)

 祖父の仕事は「文開書院」で兄を手伝い、漢学の授業の助手を務めることでした。

 祖父は用事がない夜に8、9人の小学生たちを呼び、孫娘たちをそばに置き、『聊齋志異』『西遊記』『三国演義』や歴代王朝の話などを聞かせてくれました。それらはまるで終わりのない物語のように数多くの感動的なエピソードが織り込まれていて、今でも忘れることができません。

 祖父は作中に含まれている人生の教訓についても解説してくれました。私はこれらの物語からたくさんの知識を吸収することができました。

 私は日本統治時代に生まれ、小学校では日本の教育を受けました。
 五年生に進級するタイミングで、時局の変化で日本が投降し、3番目の継母に無視され、私は学校に通うことができなくなりました。
 
 それでも、私は学ぶことを諦めませんでした。良い本があれば、なんとかして借りてきては読んでいました。戦争が激しかった民国33年(西暦1944年)、日本政府は米軍の飛行機の爆撃目標にされるからと、夜は民家の明かりを外に漏らさないよう命令していました。

 各家庭ではランプに黒いシェードを被せていました。私はいつも仄暗い明かりの中でこっそり本を読み、読み終わってから寝ていました。父に見つかるとすぐ寝たふりをして、父がいなくなってからまた読み続けました。

 光復(訳注:日本統治が終わり、中華民国による統治が始まったことを指す言葉)後、15歳だった年に軍中教官と地方政府の合作により、国語(訳注:中華民国が公用語とした北京語)の補修班が設立され、私は父親、いとこと申し込みました。当時の父は警官で、国語を学ぶ必要があったのです。

 私たちは一年の間、補習班で国語(訳注:北京語)を無料で学ぶことができました。
 雨の日も風の日も、毎晩7時から9時まで授業に出席しました。卒業式の日は、国語のスピーチコンテストが開かれることになり、教師は私にスピーチの原稿を暗記させました。

 コンテストのテーマは男女平等で、私は3位でした。
 真面目に補修班へ通い、50の注音記号を覚えてからは、本を読んだり、画数を数えるのも、辞書を引くのも、注音記号で行うようになりました。
 過去に学んだ日本語の中には中国語の文字もいくつか含まれていたので、私は少しずつ中国語の知識を吸収していきました。

 早くに結婚して子どもを産んでからは、多くの知識を付けるよう自分自身に言い聞かせていました。さもなければ将来子どもたちが大きくなって学業を修め、見識が増えて家に戻って来た時、話題に追いつくことができなくなってしまいます。

 幼い頃から読書が好きだった私は、日本語も中国語も自分でなんとか覚えてきました。知らない字は辞書で調べたり、夫に聞くなどしました。

 良い本があれば、電灯がなくても、長男が寝た後オイルランプの灯りで本を読みながら夜勤から帰る夫を待っていました。

 民国42年(西暦1953年)に台南の眷村へ引っ越してから、老梅の銘德⼀村で暮らしている間もずっと、月間『今日世界』を読み続けました。これも私の知識の源でした。

 読書には多くのメリットがあります。一冊の良い本は、私のように十字路でどのように子どもの将来を決めたら良いのかと迷う母親にひらめきをくれます。

 『野鴿子的黃昏』という本に描かれている王尚義さんの姿を見て、長男が教師育成学校ではなく彼が好きな大学進学への道を選ぶことを応援しようと思うことができました。

 私自身は本の中でも自伝が好きです。
 馮馮の『微曦』、周遊の『台灣阿姑』、施振榮ママの物語、孫翠鳳の『祖師爺的女兒』、湯蘭花の『優路那那,加油』、張國瑞の『Ohara的導盲日記』、林建隆博士の『流氓教授』、賴東進の『乞丐囝仔』、そして瓊瑤の小説などです。

 今でも新聞で良さそうな本の広告を見かけると、長女に頼んで買いに行ってもらったり、長女がボランティアをしている図書館で借りてきてもらっています。

 小さい頃から本を読むことが好きで、新聞を読む習慣もありますが、筆を取って文字を書くことはほとんどなく、この回顧録は孫たちの励ましで書き始めました。

 最初は書けない文字が多く、夫に聞いたり、辞書で調べたりしながら一章ずつ書き上げました。

 私が書いた文字を次男の光德がキーボードでコンピューターに入力し、それを子どもや孫たちに送ってくれました。

 子どもや孫たちは読み終えると手紙や電話で感想を教えてくれました。
 こうした励ましに支えられ、平均で一週間に一章のペースで一年間かけて書き終えたのが本書です。自分が一冊の本を書くなんて思いもよらないことでしたが、私が経験してきた時代のささやかな証言です。

ここから先は

0字
台湾で暮らす生活者として、取材者として、ガイドブックには載らない台湾の話をお届けします。ワンコイン500円で、月に5本程度は更新する予定です。

有料記事や、無料マガジン「台湾が気になるあなたへ」の中から、有料マガジンへ移行した記事たちです。生活者として、取材者として、ガイドブックに…

こちらでいただいたサポートは、次にもっと良い取材をして、その情報が必要な誰かの役に立つ良い記事を書くために使わせていただきます。