猶予期間
「先生、私です! 覚えてますか? わあ、お久しぶりですー!!」
先日ちょっとしたお使い物を買いに行ったら、声を掛けられた。きらきらの笑顔で声を掛けてきたのは、もう10年以上前に担任していた子だった。
「今は結婚してこの近くに住んでます。こちら先生のお子さん? こんにちはー!」
びっくりした。なぜって、私が担任していた当時、彼女はバリバリの不登校だったからだ。
私は彼女のこんな笑顔を見たことがなかった。こんな明るい声を出すなんて知らなかった。
在学当時、彼女はいわゆる「特別進学クラス」の生徒だった。学力は問題ない。だけど学校にはなじめない。「今日も動こうとしません。すみません。電話にも出たくないと」電話口でお父さんが言う。彼女の家が学校から近かったこともあり、何度か家まで迎えに行ったけれど、チャイムを押しても扉は開かなかった。ただの一度も。
そのうち相談室で過ごすことが増え、私は一緒に欠席日数の猶予を指折り数えた。「この授業はあと何時間まで休める」「あと何日なら休める」。そして課題や補習をこなすことで彼女は卒業していった。進路は白紙のまま。「卒業できれば充分です。お世話になりました」とご両親は言った。
どうしているかな、と思い出すことがなかったわけではない。
でも彼女のことを思うことは自分の後悔と向き合うことだった。
無理させたなあ。何か他に方法はなかったろうか。今どうしているんだろう。まだ家にいるんだろうか。
気になっていたものの、連絡を取る勇気はなかった。「まだ家に引きこもっているんです」と親に言わせてしまうのではないか、そんな申し訳なさもあった。
学校に勤めていると、近所の方やママ友といった人からあれこれ聞かれることがある。だいたいは進学相談。中学3年生になったんだけど、どんな勉強すれば良い? スポーツ推薦を考えてるんだけど、練習で学校を欠席することが多いのよね。大丈夫かしら……といったもの。
先日、いつも行っている美容院のオーナーに相談を持ちかけられた。「実はね、お客さんに不登校の子のお母さんがいらして……ひどく悩んでいらっしゃるから心配で」と。
聞けば、その子は高校に進学したものの、思っていた学校生活とはほど遠く、2年生になる頃には「辞めたい」という気持ちでいっぱいになったそうだ。
あるとき「学校へ行け」という母親が嫌で嫌で、制服を切り刻んだ。「とにかくテストだけは受けてきて」「この日だけでいいから行って」「そしたら辞めても良いから」
仕方なく彼女は登校した。すると親には欲が出る。担任にも。
「頑張れば行けるじゃないの、学校辞めるのはまだ早いんじゃない」
そう言われた彼女がどうしたか。
母親にハサミを向けて言ったのだ。「嘘つき!」
この母親がほとほと悩んで、美容院のオーナーに話したらしい。
そこで私は前述した彼女の話をした。私の後悔も。そして言ってみた。「こういうことを親や担任は一日、あるいは週単位で解決しようとします。長くても月単位。でも卒業生の彼女に会って分かったんです。これは年単位で考えないといけないって。一日単位で考えることがどれだけ本人を追い詰めているか、私たちは理解しないといけない。そしてお母さんが全然笑わなくなった原因が自分にあることを、彼らは痛いほどわかっています」
するとオーナーは目を丸くして言った。
「そうですそうです、そのお母さん、今すぐ何とかしようという気持ちでいっぱいなんです」
そしてそのお母さんが前は明るい方だったこと、今はとても表情が暗いことも教えてくれた。
「たぶんその娘さん、お母さんを悩ませていることで苦しんでると思いますよ」
「本当ね……きっとそうね。わかりました、今度お母さんが見えたら話してみます。私もお母さんの立場でしか考えてなかった。ありがとう」
確かに30代40代の引きこもりが増え、社会問題になっているのは事実だ。そうなって欲しくない、そのために今動かなくてはという親の気持ちも理解できる。
でもひょっとしたら、子どもは「まだいいよ」という言葉を待っているのかもしれない。
「もう少し待って」と言えずにいるだけなのかもしれない。
あの日、彼女に会えたことで私は新たな気づきを得ることができた。人はちゃんと笑う力を取り戻せる。
考え方のスパンを長く。自分が思うよりもう一段階、長く。
私にも2人子どもがいる。不登校になるとしたら、真面目なタイプの長子のほうだろうと思う。もしその日が来たらどうするか。
私は一緒に旅に出ると決めている。
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