選択本願念仏集(「選択集」)とは?


浄土宗や浄土真宗を学ぶ上で欠かせない重要な仏典の一つとして知られる**「選択本願念仏集」は、法然上人(1133年~1212年)によって著された教義書です。その正式名称は「選択本願念仏集」といいますが、一般的には略して「選択集」**と呼ばれることが多いです。この一巻の書物は、法然上人が念仏による浄土往生の教えを明確に示し、その根拠を述べたものです。

この記事では、「選択集」の成立背景や内容、そしてその後の仏教界や日本社会に与えた影響について詳しく解説します。

1. 「選択集」の成立背景

法然上人は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した僧侶です。当時の仏教界は、難解な教義や厳しい修行が重視され、多くの人々が救済されるには至っていませんでした。法然上人は、煩悩を抱えたままの人間でも往生できる道を探求し、『観無量寿経』や『無量寿経』といった浄土三部経に基づいて、**「阿弥陀仏の本願による救済」**を説きました。

「選択集」が著されたのは、法然上人が74歳のとき、建久7年(1196年)のことです。この書物は、九条兼実「くじょうかねざね」という当時の摂政の求めに応じて書かれました。法然はこの中で、阿弥陀仏が人々を救うために「選択」された念仏の重要性を説き、「専修念仏」という教えを確立しました。

2. 「選択集」の内容

「選択集」は、法然が浄土教の根本理念を整理し、念仏を中心とした教えを明文化した書物です。その中で、以下のような主要なテーマが扱われています。

(1) 阿弥陀仏の選択

「選択」とは、阿弥陀仏がすべての衆生を救済するために選び取られた「念仏」という行のことを指します。これにより、他の修行ではなく、「南無阿弥陀仏」を唱えることによって誰でも極楽浄土に往生できるという信仰が確立されました。

(2) 平等な救済

法然は、貴族や武士だけでなく、庶民や罪人といった立場にかかわらず、すべての人々が阿弥陀仏の救いを受けられると説きました。これは、当時の厳しい身分制度に囚われていた社会にとって革新的な思想でした。

(3) 専修念仏の強調

念仏以外の修行方法に頼らず、ただひたすら念仏を唱える「専修念仏」の実践を重視しました。「選択集」では、これを浄土往生の唯一の方法として明確に位置づけています。

3. 「選択集」の影響

「選択集」の登場は、日本の仏教界や社会に大きな変革をもたらしました。

(1) 浄土宗の成立

法然の教えは「浄土宗」として組織化され、日本全国に広がりました。その後、法然の弟子である親鸞が「浄土真宗」を開き、さらなる発展を遂げます。

(2) 民衆仏教の広がり

「選択集」による専修念仏の思想は、平安時代後期から鎌倉時代にかけての民衆信仰の基盤となりました。それまでの仏教は特権階級を中心としたものでしたが、法然の教えによって一般民衆も気軽に仏教に触れることができるようになりました。

(3) 批判と論争

「選択集」は当時の伝統的な仏教界から激しい批判を受けました。天台宗や真言宗の僧侶からは、「念仏だけで救われるのは安易すぎる」との批判があり、法然の教えを異端視する動きもありました。しかし、その批判を乗り越え、法然の教えは長く受け継がれていきます。

4. 現代における「選択集」の意義

現代でも「選択集」は、多くの仏教徒や研究者にとって重要なテキストです。そのシンプルで平等主義的な教えは、複雑化する社会においても普遍的な価値を持っています。また、「誰もが救われる」という思想は、宗教を超えて広く受け入れられるメッセージとして注目されています。

まとめ

「選択本願念仏集」、通称「選択集」は、法然上人がその生涯をかけて説いた念仏の教えを集大成した書物です。この一巻に込められた思想は、浄土宗や浄土真宗の教義の根幹を成すものであり、日本の仏教史において重要な役割を果たしました。現代においても、その教えは私たちの心に響き、普遍的な救済の道を示しています。

## 法然上人:浄土宗の開祖とその生涯

法然上人(1133年~1212年)は、日本の仏教史において重要な人物であり、浄土宗の開祖として知られています。彼の生涯と教えは、多くの人々に影響を与え、現代に至るまで続く深い宗教的な遺産を残しました。

### 幼少期と出家

法然上人は1133年、美作国美作国(みまさかのくに)(現在の岡山県)に生まれました。幼名を勢至丸「せいしまる」といい、若くして父を亡くしました。父の死に際の遺言に従い、9歳で出家する決意を固めました。その後、比叡山で天台宗を学び、深い仏教の知識と修行経験を積みました。

### 専修念仏の確立

比叡山での修行を通じて、法然上人は阿弥陀仏の本願に基づく「専修念仏」の教えにたどり着きました。この教えは、阿弥陀仏の慈悲に依存し、念仏を唱えることによって誰もが救われるというものでした。1175年、法然上人はこの教えを広めるために浄土宗を開宗しました。

### 浄土宗の教えと影響

浄土宗の教えは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての混乱した時代背景の中で、多くの人々に受け入れられました。専修念仏は、煩雑な修行や学問を必要とせず、誰でも実践できるという点で、特に庶民に支持されました。しかし、従来の仏教勢力からの反発も強く、法然上人は一時期流罪に処されるなどの困難も経験しました。

### 晩年と遺産

流罪から解放された後、法然上人は京都に戻り、教えを説き続けました。彼の晩年には、多くの弟子たちが集い、その教えを継承しました。法然上人は、『一枚起請文』という重要な教えの書を遺し、80歳でこの世を去りました。

### 法然上人の遺産

法然上人の教えは、彼の死後も多くの弟子たちによって受け継がれ、日本全国に広まりました。浄土宗は、日本の仏教の中で重要な位置を占めるようになり、現在でも多くの人々に影響を与え続けています。

法然上人の生涯と教えは、困難な時代にあっても人々に希望と救いを提供し、宗教的な革新をもたらしました。その遺産は、現代においてもなお色褪せることなく輝き続けています。

### 平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿 - 九条兼実

九条兼実(くじょうかねざね、1149年~1207年)は、日本史における重要な歴史人物であり、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公卿です。彼は藤原北家の関白・藤原忠通「ふじわらのただみち」の三男として生まれ、その生涯を通じて多くの政治的影響を与えました。この記事では、九条兼実の生涯と業績、そして彼の残した日記「玉葉」「ぎょくよう」について詳しく見ていきましょう。

#### 九条兼実の生い立ち

九条兼実は、1149年に藤原忠通の三男として誕生しました。彼は幼少期から高い教養を身につけ、政治の世界に足を踏み入れる準備を整えていきました。九条家の祖として知られる彼は、家族の期待を背負いながら、その地位に見合った働きを見せることを目指しました。

#### 摂政・関白としての役割

九条兼実は、摂政や関白として朝廷に仕えました。彼は源頼朝と協力して、朝廷政治の復興に努め、その影響力を拡大しました。特に、平家の滅亡後における鎌倉幕府の設立に際して、頼朝との連携が重要な役割を果たしました。しかし、政治的な波乱の中で、兼実は次第にその地位を失っていくこととなります。

#### 日記「玉葉」の意義

九条兼実が残した「玉葉」という日記は、当時の政治や社会情勢を詳細に記録した貴重な史料として評価されています。この日記には、彼の政治的な活動や人々との交流、さらには当時の文化や風俗についての記述が含まれており、後世の研究者にとって重要な情報源となっています。「玉葉」は、九条兼実がどのようにしてその時代を生き抜いたかを知るための鍵となるものです。

#### 失脚と余生

政治的な失脚の後、九条兼実は出家し、法然上人のもとで余生を過ごしました。彼は出家後も信仰に生き、その精神的な充足を追求しました。この時期の彼の人生は、世俗の喧騒から離れ、内面的な成長と平穏を求める姿勢が色濃く表れています。

### まとめ

九条兼実の生涯は、政治的な波乱と精神的な成長という二つの側面から見ることができます。彼の残した「玉葉」は、当時の日本社会を理解するための貴重な手がかりとなり、その意義は今もなお色褪せることはありません。彼の生涯と業績は、日本史における重要な一ページとして、後世に語り継がれていくことでしょう。

九条兼実の人生を通じて、時代の変革期における政治家としての葛藤と、その中で見出した信仰の道について、深く考えさせられます。

いいなと思ったら応援しよう!