【往復書簡:ひびをおくる】柳沼雄太005
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夏の音と隔たり
百日紅の時期は長く、初夏から秋にかけてが見頃である。夏が一度だけ巡って過ぎ去ってゆく時間を、百日紅の花は見つめている。長く続いてゆく時間の中で、僕らが過ごしてきた時間は、百日紅の花のように小さくも鮮やかであり続けるのであろうか。それとも———。
電話口から聞こえる彼女の声は、いつかの霧雨の夜を再び思い出させる。どこまでも続いてゆきそうな春の夜に、それは冷たく降りしきっていたことを覚えている。
「突然ごめんね。あの...話なんだけどね...。」
「うん…。」
僕は彼女の言葉を待つ。
あの夜の映像を振り払うかのように、携帯電話を持ったまま外へ出た。太陽は上がりきり、灼けるような日差しが全身を包む。既に三十度は超えているであろう。猛烈な熱気が全身を這い上がる。蝉の鳴き声にかき消されないようにと願いながら、彼女の言葉に耳を澄ませる。
電話をしている彼女の姿を思い浮かべる。いつも髪をかき上げて、電話を左耳に当てる。手持ち無沙汰になる右手は、前髪を上から下へと撫ぜている。彼女の何気ないその仕草が好きだった。しかし今、僕は彼女の表情さえ思い浮かべることができない。ドア一枚を隔てたあの日の夜のようである。
一条の汗が額から流れ落ちた時、彼女の口からようやく言葉が流れ出る。
「引っ越しをするの。今の部屋を出て行く。」
「え...。」
予想もしなかった言葉を聞く。今までの連絡の中で、話題に上がったことは一度もなかったはずだ。思い返しても心当たりはない。焦りのあまり言うべき言葉が見つからないが、それでもなんとか言葉を絞り出す。
「近くに?」
「ううん、もっと遠く。」
「遠くって...。」
「それが...〇〇市なの。」
「え、そんな遠く...。」
告げられた場所は、彼女が今住んでいる場所よりも遥か西の方にある都市だ。僕の住んでいる場所からも遠く、通い詰めることは困難だ。
一瞬、目の前が真っ白になる。暑さのせいか、驚きのせいかは分からない。意識が白昼夢へ溶け出すようだ。思わず目を瞑る。もう一度目を開けると、普段と変わらない世界が広がっている。灼けるような日差しと、蝉の鳴き声、アスファルトに写る草木の影も先ほどとまったく変わっていない。しかし、電話の向こうの世界が変わりゆくことは分かっている。僕はどの世界にいるのだろうか。確かめるように足元を見つめる。街を彷徨ったあの夜と同じ靴を履いていることに気が付く。その刹那、まるで啓示のように名付けられなかった感情が心中を掠める。僕はこの感情を繋ぎ止めなくてはいけない気がして、空白を埋めるように言葉を継ぐ。
「それで...僕たち、どうしよう...。」
ひとり言にも似た声音で、言葉が口を衝いて出る。野暮な言葉であることはすぐに自覚した。それでも、この場所で彼女の意志を確かめるには僕の言葉しかない。そして、僕は彼女の言葉を聞きたいと思う。
長い沈黙がある。彼女の逡巡が伝わってくる。
「...あなたに任せたい。」
その言葉を聞いて、自分がそれほど驚かなかったことに驚いた。返す答えは決まっているはずだが、簡単には出てこない。
「僕は...。」
「あなたが行きたい場所はどこ?」
少しだけ彼女の声音が変わったように聞こえた瞬間、電話が切れた。
僕は彼女の問い掛けに答えることができなかった。しかし、失望に沈むことはない。答えは決まっている。どの場所へ向かえば良いか、今ならばはっきりと分かる。
白昼の街路へ飛び出す。迷いはない。この一瞬、この刹那に駆け出すために、僕は遠回りを続けてきたのだろうとさえ思う。逡巡は遠回りではなかった。あの時、老人に告げた言葉にもはや輪郭はない。僕が彼女の逡巡を抱える時だ。
彼女の部屋へ着く。太陽は僅かに傾いたが、未だに見上げる位置にある。陽に照らされた彼女の部屋のドアは綺麗な緑色をしている。まるで遅れ出てきた新緑のようで、僕は思わず笑みを零す。夏が猛る頃の花畑の緑はこれよりも深いだろう。
呼吸を整えてから、呼び鈴に触れる。僕が言うべき言葉は決まっている。息を止め、その言葉を声に出さずに繰り返す。周りの音が聞こえなくなったその時、一気に鈍色の呼び鈴を押し込む。
呼び鈴は鳴る。しかし、音は虚しく響くだけだ。もう一度押しても反応はない。徐ろにドアノブを回してみると、拍子抜けするほど軽く回る。呆気なく開いたドアの向こうには、がらんどうの部屋がただそこにあった。家具は何もなく、カーテンが掛かっていない窓の向こうには青空が広がっている。そして、彼女の姿もそこにはない。
慌てて電話を掛ける。呼び出し音は鳴るが、電話に出る気配はない。それでも幾度となく電話を掛けるも、呼び出し音が響くだけである。青空は相変わらず窓の向こうにある。
どれくらいの時間が経っただろうか。彼女の部屋を出ると、ドアの脇に無造作に置かれた椅子がある。彼女が愛用していた椅子であることが、経年の具合で分かった。それは彼女が確かにここにいたことを示しているようで、僕はその背凭れに彼女の緩やかな猫背を重ね合わせた。
この数日間のことを思い返しながら、夏の暑さに灼かれている。自分の後方に濃い影が伸びる。連絡を取り合った彼女のメッセージを辿るが、仄めかされていることは何もないように思える。早く咲きすぎた向日葵も未だ変わらずそこにあって、向日葵よりも長い影が伸びている。その姿が自分と重なる。俯きがちな姿で変わらずここに存在し、そして影を携えて生き続ける様相は、まさしく今の自分そのものだ。
このままでいいのだと思う。あの春の夜、前を向くことができない後ろめたさがあった。懊悩という言葉で隠した感情を抱え込むには幼すぎたかもしれない。しかし、僕は今、その懊悩に目を向け、不確かでも信じ続けなくてはならないと思う。何故なら、それは僕自身が選択した不確かさであるからだ。そして今、僕は不確かさを確かな言葉にすることができている。無性に海を見たいと思う。今ならば、遥かな水面の揺らめきに反射する光の鮮やかさを感じることができるはずだ。
いつか眠りから覚めた海へ向かう。あの朝は霧雨が烟るように降っていたが、今日は青空が続いている。立ち上る真白な雲も、どこか長閑かな午後である。
過ごしてきた季節を思い、僕はもうあの日の僕ではないことを自覚する。逡巡も不確かさも抱えたままであるが、何よりも届けるための言葉を持っている。内側に抱え込んでいた言葉も、もはや僕だけの言葉ではないだろう。遥か遠い隔たりがあっても、言葉は響き合うことができる。
渡せなかったクロタネソウの花束はとうに枯れているが、未だに花瓶に生けたままだ。近いうちに、片付けなくてはならない。見つめた海は穏やかに凪いでいる。そのまま息を吐いて目を閉じる。波の静かな音に耳を澄ませる。遠くで聞こえているのは誰かの声であろうか。そして僕にひとつの音が訪れる。海鳴りを聞いた気がする。
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鳥野みるめ様
こんにちは。吹いてくる風に秋の訪れを感じる今日この頃です。特に夜は半袖では肌寒いくらいですね。
つい1ヶ月前に梅雨が明けたことを思い返して、今年の夏の短さに切なさを感じています。
意外と自分自身が住んでいる街は知らないものですよね。歩くたびに出会うことやものがたくさんあって、さらに人が邂逅することで異なった景色が生まれることもさらなる発見でした。この手紙を送り合っているからこそ、新鮮な気持ちで街を歩くことができています。
本や音楽を言葉で紹介することは、難しいけれど面白かったです。手紙にすくいあげる本や音楽は、自分の中で選択を重ねた上で言葉を綴ったものでした。その言葉を綴る時に考えたこと、そしてそのこと自体がそのまま生活の延長のように感じられました。
短い文章を読みながら、僕もみるめさんの俳句の解釈のようなことを考えていました。長い文章だと説明的になってしまう上に、書き手の主観がありありと分かってしまうことがあります。言葉を選ぶことには覚悟が必要です。短い言葉で共感を得ることは本当に難しいですよね。この段落も些か説明的かもしれませんね。
僕は、写真にも俳句のような、短い文章のような魅力を感じていますが、みるめさんはいかがでしょう?今度お会いした時に聞いてみたいです。
光と影。僕らの周りには、それらがあふれています。しかし、ひとつの光、ひとつの影に目を凝らすと、それは儚く消えてしまいます。僕もその光や影を忘れたくなくて、言葉で残そうとあがいているのかもしれません。
いよいよお手紙も結末ですね。離れた場所での生活を綴り合うことはとても楽しく、貴重な経験となりました。連載は終わりますが、ふたりの生活はそれぞれ続きます。時々立ち止まって、このようなひびをおくった季節を思い出せるといいですね。
それでは。お元気で。
2020.09.03
書肆 海と夕焼
柳沼雄太
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雑記
今回で往復書簡も結末を迎え、小説も物語をここで閉じます。
みるめさんの写真から浮かび上がる光景を、なるべく忠実に自分の言葉で紡いで痕跡を残したつもりです。
様々な解釈が生まれ、皆さんそれぞれの物語が続いていけばいいなという思いです。
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先日訪れた鎌倉は、一日では堪能しきれない程に魅力的な場所でした。
またひとつ季節が巡ってゆく時に見ることができる街の表情を楽しみにしながら、生活が重なる瞬間が訪れるといいなと思っています!
2020.09.05 柳沼雄太
◆今回の小説の元であるみるめさんの写真は下記リンクよりご覧ください。
◆前回の小説は下記リンクからお読みください。
迎えた結末。お読みいただいた皆さま、ありがとうございました。