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人は、尊いものを「命のパン」と呼ぶかもしれない

音声データ

詩編・聖書日課・特祷

2024年8月11日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 申命記 8章1〜10節
 詩 編 34編1〜8節
 使徒書 エフェソの信徒への手紙 4章30節〜5章2節
 福音書 ヨハネによる福音書 6章37〜51節
特祷(聖霊降臨後第12主日(特定14))
永遠にいます全能の神よ、わたしたちに信仰と望みと愛とを増し加え、またあなたが約束してくださるものを得るためにあなたが命じられることを愛させてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 毎日、暑いですね。皆さん、お暑い中、礼拝にお越しくださりありがとうございます。ちゃんと熱中症対策されてますか、皆さん? 喉渇いてなくても、意識して水分取りましょうね。礼拝中でも、遠慮なくガブガブ飲んでください。僕も飲みますからね――水分補給――。あー、美味しい。皆さんもね、まぁ僕のお話なんて、そんな集中して聞く話じゃないですから、どうぞ、飲み物飲みながらリラックスしてお過ごしください。

 さて、先々週のことなのですけれども、ちょっと早めに“夏休み”をいただきましたので、一週間、地元・兵庫県の西宮に帰ってきました。それでですね、僕は弟が二人いるのですけれども、一番下の弟とそのお連れ合いとの間に、この度、赤ちゃんが生まれたのですね。それが、こちらです。

 カワイイー! きゃわわですね。***くんって言います。5月の11日が誕生日なので……、あぁ、今日でちょうど3ヶ月ですね! ハーフバースデーならぬ、“クォーター(4分の1)バースデー”ということになりますけれども、いやぁ、モチモチですね。ムチムチじゃなくて、モチモチって感じがします。なんかもう、全部“美味しそう”ですよね。でも、ホンマに、「食べちゃいたいくらい可愛い」って、まさにこのことやなぁって思いました。

赤ちゃんは「命のパン」

 よく、赤ちゃんの「手」とか「腕」って、「パンに似てる」って言われるんですよね。スーパーとかコンビニとかに売ってる菓子パン(?)にそっくりなんですよ。

 こんなふうに、SNSで「赤ちゃん パン」って調べると、こういう写真がいっぱい出てきます。確かに、そっくりですよね。どちらも、モチモチ。可愛いですねぇ。
 でも、このモチモチのお肉は、大きくなるにつれて、徐々に無くなっていきます。大抵の場合はね。まぁ、変わらず、モチモチ……というかムチムチの子もたまにいますけれども、基本的には、いつの間にか、シュッと、細い腕になります。いつまでもモチモチでいてほしい、って思うわけですが、残念ながら、そのモチモチお肉は消えちゃうのですね。
 これ、なんでなんかなぁ?と思って、ちょっと調べてみました。そうしましたところ、実は、赤ちゃんというのは、消化とか吸収の能力が未発達なので、当然、大人が食べているようなものは食べられない(つまり、「糖質」ですね。我々大人からはむしろ嫌われがちな「糖質」を摂取することができない)ので、エネルギーを生み出すことができないのですね。

 そこで、赤ちゃんは、母乳とかミルクの中に含まれている「中鎖脂肪酸」という成分によって、このモチモチのお肉を燃焼させて、成長するためのエネルギーに変換している……ということなのですね。だから、このモチモチは、大きくなっていく過程の中で、いつしか消えてしまうということなのだそうです。すごいですねぇ。どうして赤ちゃんはモチモチしているのか。それは、しばらく母乳やミルクだけでも生きていけるように、分解・燃焼するための脂肪を蓄えているから!ということだったのですね。
 なので、そう考えてみますと、この赤ちゃんの身体というのは、言ってみれば、全部がエネルギー源。今日の聖書の言葉を借りるならば、「赤ちゃん」という存在はまさに「命のパン」――。「パンに似ている」だけじゃなくて、赤ちゃんにとっては、正真正銘、自分自身が「命のパン」なのだ!と、そのように言えるんじゃないかと思ったわけなのですね。

『日本聖公会聖歌集』211番

 さて、ちょっと話は変わりますけれども、皆さん、もしよろしければ、お手元にある聖歌集をお開きいただけますでしょうか。『日本聖公会聖歌集』の211番をお開きください。
 これは、収穫感謝のときに歌われることの多い聖歌ですね。僕は、日本基督教団に所属していたときから、この曲が大好きでした。『讃美歌21』というプロテスタントの賛美歌集にも収録されています。歌詞は、これとは違うのですけどね。もっと口語的な翻訳になっているのですけれども、先日、聖公会の聖歌集にも入っているのを知って、嬉しく思いました。
 特に、この「おりかえし(リフレイン)」のところが、凄く、良い歌詞だなぁって思うのですよね。「よきものみな 天(あめ)より来(き)ぬ  神の み恵みを ほめたたえよ」

※『日本聖公会聖歌集』211番「われらたがやし 種をまけど」の動画が無かったため、同一曲の『讃美歌21』386番「人は畑をよく耕し」の伴奏動画を掲載しておきます。

よきものみな 天より来ぬ

 この曲は、先ほども言いましたように、基本的には「収穫感謝」をテーマにした聖歌です。なので、「種」とか「稲穂」とか「地の実り」というような言葉が、この中には散りばめられています。でも、この歌詞……、よく考えてみますと、「あれ?ちょっとおかしいぞ?」と思う点があるのですね。それは、「収穫物」、つまり、野菜とか稲穂などといった「地の実り」のことを、「天からの恵み」と呼んでいるところです。もちろん、神さまが与えてくださるみ恵みだ、ということについては異論はありません。ですが、「天からの恵み」……? いやー、別に、天から降ってきたわけじゃないよなぁ……? というように思ってしまうのですが、どうでしょうか。

 かつて、ユダヤ人たちの祖先であるイスラエルの人々は、天から降(ふ)ってきた“何かよく分からない食べ物”を食べた。そのように、今日の旧約聖書でも福音書の箇所においても、書かれていました。「マナ」とか、あるいは「マンナ」と呼ばれる、今も昔も、この世界には存在しない“謎の食べ物”が空から降ってきて、それをイスラエルの人々は食べて飢えをしのいだのだと、聖書は伝えてくれているのです。
 でも、少なくとも我々が知る限りでは、普通、そのようなことは起こらない。空から(天から)食べ物が降ってくる、などということは、あり得ないのですよね。そして、“あり得ないこと”だからこそ、むしろ古代の人々は、「空から『マナ』っていう食べ物を神さまがお与えくださったんだ」という伝説、“奇跡物語”を作り上げたのだろうと考えられるわけですね。
 そのように、「天から食べ物が降ってくる」ということは、やはり、あり得ないこと。じゃあ、この聖歌の中では、どのようなことが歌われているのかと言いますと、1節の歌詞ですね、「われらたがやし 種をまけど 雪もておおい 雨をそそぎ 日にて暖め 風を送り 実らせたもうは ただ神なり」。つまり、「雪」、「雨」、「日(日光ですね)」、そして、「風」……。そのような、空からもたらされる“自然の力”、地に撒かれた種を“育ててくれる力”、それらこそが「天からの神のみ恵み」なのだと、この聖歌は歌っている――、そう理解することができると思うのですね。

神の言/命のパン

 農作物、収穫物。その元となる「種」とかも、もちろん、神のみ恵みではあります。その認識はとても大切。でも、それだけじゃない。そのような「地の実り」を育ててくれる、水や光、空気……。そういった、いわば人間の視覚(見る力)では確認しづらい“自然のパワー”、我々生きとし生けるものが“命を育む”ために必要な力、それこそが、むしろ、「天より来たる神のみ恵み」なのだというのが、この曲に込められたメッセージであるように感じるのですね。
 今日の福音書の中で、イエスが自分自身のことを「命のパンである」というように語っているのは、第一に、このヨハネ福音書の神学の核となっている「イエス・キリスト = 言(ことば)」であるという考えに基づいていると言えます。ヨハネ福音書は、他の3つの福音書と違って、「最後の晩餐」の場面を描かないのですね。「これは、わたしの体」と言って、パンを弟子たちに与える描写を、あえてヨハネ福音書は避けたわけです。
 それがどういう理由から行われたのかは、正確には分かりません。もしかすると、福音書記者ヨハネの周辺では、「教会で分かち合っているパンには、なにか魔術的な力が込められている」というような噂が広がっていて、それは良くないと思ったために、ヨハネはあえて「最後の晩餐」を描くのを避けたのではないか……とか、そういう感じで色々と想像できるわけですけれども、まぁ、残念ながら真相は闇の中、天国でヨハネさんに直接聞くしかない、ということになっています。
 しかし、ヨハネ福音書は、「最後の晩餐」を描かない代わりに、この「イエス・キリスト = 言(ことば)」という考えに基づいて、神の子であるイエスの「言(ことば)」を食べる――ということの重要性を、今日のこの箇所で説いているのですよね。「人はパンだけで生きるのではなく、[……]主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:4)というのが、今日の旧約テクストに書かれていたキーフレーズでしたけれども、まさに、
物質的なパンを食べるだけでなく、イエス・キリストの存在に示される「神の言(ことば)」を食べて、心も身体も養われていくべきだと、このヨハネ福音書のイエスは語っているわけです。そして、それこそが、この「わたしは天から降ってきた(命の)パンである」という、イエスの言葉の真意であるのですね。

命を奪う物が天から……

 さて、お話も終盤に差し掛かっておりますけれども、ちょいとここらで、冒頭にご紹介した「命のパン」を、もう一度“補給”しておきたいと思います(笑)

 あー、やっぱり可愛いですね。見るだけで“お腹いっぱい胸いっぱい”になるというのは、やっぱり、赤ちゃんって「命のパン」なんだなぁと思わされますね。
 (「命のパン」である)このような赤ちゃんも含めて、我々の命、また、日々の糧、更には、雪や雨、お日さま、風といった“自然の力”、そして何より、僕らの心を養い育ててくれる神の言(ことば)……、それらはみな、「よきもの」として、「天から」与えられるものなのだ、ということを、今日はお話してまいりました。
 ですが、どうでしょうか。今、この世界において、「天から」降ってくる、つまり、「空から」降ってくる物というのは、果たして、本当に我々、この地上に生きている被造物の命を養ってくれるものばかりでしょうか。むしろ、命を養うどころか、“命を奪う”恐ろしい物が、空から降ってくる――、そのような危険に日々怯えながら過ごす人々がいるということを、特にこの、平和を祈る8月の時期だからこそ、我々は胸に留めたいと思うのですね。
 先週、この国では、8月6日と9日に、それぞれ「広島原爆の日」と「長崎原爆の日」を覚えて、多くの人々が祈りの時を過ごしました。今年は、あの年の8月15日に(一応は)終わりを迎えた第二次世界大戦の惨劇から、「80年目」という節目の年を迎えています。天から降ってきた殺戮兵器によって、広島と長崎では、合わせて20万人以上の人々が命を奪われた……。また、日本だけでなく、世界中で、たくさんの爆弾が天から投下され、おびただしい数の命が失われるという忌まわしき歴史を、我々人類は作り上げてしまったのです。

イラストACより

 しかし、本当に残念なことに、人類は未だに、空から爆弾を落としたり、ミサイルを打ち上げたりして、多くの命を……、特に、“このような何の罪も無い子どもたち”の命を奪い続けています。言い換えれば、「子どもが死んでもしょうがない」と考えている大人たちが、この世界にはたくさんいるということになると思います。恐ろしいことですね。
人間は、かつて、神は「天」におられる(空の彼方におられる)、そして、“あそこ”から神は命の糧を注いでくださっているのだと、そのように想像していたようですけれども、しかし科学の進歩によって、神は“あそこ”にはいない!ということが明らかになった途端、その“神がいなくなったところ”から、人間は(命を奪う)殺戮の道具を降らせるようになった……。その行為はまさに、「神をその座から引きずり下ろして、人間がこの世を支配しよう」という、愚かな人間の思惑を象徴する行為であったのではないかと思います。

おわりに

 僕ら人間は、そのような思い上がりやうぬぼれを、心から悔い改める必要があります。そして、この世の支配者としての立場をちゃんと神にお返しし、先ほどの聖歌の中で歌われていたように、「よきものみな 天(あめ)より来(き)ぬ」(天からは“良いものしか”もたらされないのだ)という、この世界の“本来のあり方”を取り戻す――、それこそが、今の時代を生きる我々、神を信じる者たちに委ねられている責務なのではないでしょうか。
 “この子たち”の将来を、守っていきたい。この子たちが安心して生きていける未来を、作り上げていきたい。そのために、できること、なすべきことを共に考え、共に働く……、そのような“平和の器”としての一人ひとりでありたいと願っています。
「神の聖霊を悲しませてはいけません。[……]互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エフェソの信徒への手紙4章30〜32節より)

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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