すべてが虚構
私が自分自身の存在に対して疑問を初めて持ったのは3歳の頃だ。
妹が産まれたときだった。
私の家系は縦社会が全て&男尊女卑思考が凝り固まったオジサンオバサンが多いので、まだたった3歳の私に対して「お姉ちゃんになるんだからね」「ワガママ言っちゃダメだよ」「下の子に嫉妬しちゃダメだよ」などと耳タコレベルで言われた。
今思えば3歳なんてまだまだバブ🍼である。
甘えたい、親を独り占めしたい、なんて当たり前だし、そりゃあ下の子が生まれて嫉妬するのも私の意思ではなくほぼ生理現象(親が私から離れたら生きていけないから)だろう。
つまりあれは「嫉妬しちゃダメ」(=嫉妬を表に出すな、迷惑かけるな)ということだったのだろう。
私は兄弟がいようがいまいが、「私」のままである。
妹が生まれたことで私は「姉」になったが、それはただ子供がもうひとり生まれたことでその関係性に呼び名がついただけの話だ。
でもその頃から「私」を「私」として見てくれる大人は母方のおばあちゃん以外いなくなった。
そんなこんなで3歳、4歳頃から私は「私」は誰で、そして本当の私はどこにいるのか考えるようになった。
何を持って私を私と証明するのか。
その頃からただ等身大の私を証明するものなどないことに気がついていたような気がする。
私に立場があって初めて私が認識される。
つまり何者かでなければならないのだと幼いながら思っていた。
「●●の娘のやきにく」
「●●家の長女のやきにく」
「△△という学校に通っているやきにく」
など。
何物でもない私、ただの「やきにく」だけじゃ、ダメなんじゃないかと。
だからみんな必死にその肩書きが欲しくて、ときには大事なものを見失ったりしながらでも努力をするんだろう。
学歴、それが終われば職場での立場、地位、名誉など。誰の妻であるか、またはどんなにすごい人の友達であるか、など。
しかし最近になって、新卒で入った職場を数ヶ月でやめ、うちの親戚が聞いたら発狂でもしそうな「web業界の(ほぼ)フリーランス」という職業につき、何者でもなくなった「私」を前にして、やっとそれをただの「私」として肯定できるようになってきたのである。
肩書きありきの自分は、その肩書きがあって初めて成立すると気づいたからである。その肩書きに依存してしまうことになると気づいたからだ。
私ありきの肩書きだったはずが、肩書きありきの私になってしまう。
それらが存在しなければそこに依存していた私も存在しないのだ。
つまりこれまで縋ってきた何もかもが「虚構」だったということだ。
人間関係でも、職業でもそう。看護師の私、も虚構だ。
看護師をやめた瞬間、私はただの人になるんだから。
その役割から降りた途端に私はそれではなくなる、いわゆる俳優さんのようなものだ。
最近は、恐れを捨ててなにもない私を肯定することに決めた。
娘である前に、姉である前に、妻である前に、看護師さんである前に私は私。
何もかもを自分が決めていいという権利を持っている。
ただの虚構に人生をかけない。
他人軸の希望を持たない。
「全ての希望が失われた先にあるもの、それが自由だった」という映画ファイトクラブの言葉。
これに全てが詰まっていると私は思う。