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今しか書けない文章を書いている。 | 人が文章を書くことの意味と、感性を蘇らせる復活の呪文

失われてしまうから、それは美しいんだよとその人は言った。

今にも割れそうな薄いワイングラス。
明日には枯れてしまうかもしれない植物。
散っていく桜。
初めての体験に導かれた感情。
死に向かって生きてゆく僕ら。

永遠に続くことを知っていたら。決して壊れないことを知っていたら。失われることが想像できなかったら。僕らはそこに美しさを感じない。

絶対に割れない強化ガラスでできたグラス。
枯れることのない造花。
散ることを知らない桜。
永遠に続く感情。
死なない僕ら。

失くならないことを知っていたら、人はそこに価値を感じない。

失うかもしれない恐怖心、失われたあとの喪失感、寂しさ、空虚。こうしておけばという後悔。でもどうやってもあれは取り戻せないという諦め。
失われゆくものには、失われる前から、それらの感情すべてが内包されている。失われたあとの悲しさを、実際に失うよりも前から、想像的に、先取りした形で感じている。

だから、尊いと思う。大事だと思う。失いたくないと思う。でも、心のどこかではそれが失われることを知っている。この矛盾の引っ張り合い。それがとても美しい。

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2020年1月7日、僕は文章を書き始めた。

2020年になって、文章を書き始めた。自分の中にある何かに、掻き立てられるように書いた。しばらくはその衝動の正体が何なのか、わからなかった。

最初に告白するが、誰かに読まれたいと思って書いているわけではない。より正確に言えば、誰かに読まれることを目的として、書いているわけではない。かっこつけるなよと言われるかもしれないけど、まあちょっと読み進めてほしい。

誤解してほしくないが、読んでもらえることは何より嬉しい。自分の書いた文章が誰かに読まれること、そして読まれて感情を共にしてもらえることは、望外の喜びだ。本当にありがたい。一人ひとりと握手したい。読んでくれてありがとう。大げさに言えば、生きていてくれてありがとう。青臭いけど真顔で言いたい。

でもそれは、結果として得られるものだ。
仮に一人からも読まれなかったとしても、ちょっとだけ僕が悲しくて寂しいだけだ。それでいい。そう決めて書いている。それは、ここで文章を書くにあたって最初に自分に強く課したことだ。
(じゃあなんでevernoteとか日記帳ではなくてnoteで公開し始めたのかというと、誰かから読まれる可能性によって、磨かれる文体があることを知ったからだ。この辺のことは別途書くつもりだ。)

誰かに読まれることを目的にすると、多くの人に読んでもらいたくなる。読者を「多数」と想定すると、褒められたり、役に立ったり、すごいねと言ってもらいたくなる。これは僕のしようもない性だ。「外行きの自分」を用意してしまう。ちょうど、大勢の前で話すときにはスピーチの原稿を用意するみたいに。そしてその「外向きの自分」が発する言葉は、往々にして、やわらかい本心を反映したものではなく、それなりに着飾って理論武装した固いものになる。ここでいう「固い」とは、文体がおカタいかどうかではない。感情と言葉のどちらが堅固かということだ。言葉の方が固いと、感情の方を言葉の枠に合うように変えなければならない。そうすると、無意識に、多少の欺瞞や誇張が紛れ込む。入ってしまう。
そうではなくて、内面の感情に合わせて、言葉で輪郭をつくりたい。生っぽくて、曖昧で、やわらかい自分の内面を、できる限りそのまま言語化するために。言葉はやわらかく保ちたい。そういう思いがあった。だから最初に、誰かに読まれることは目的にしないことに決めた。想定読者は、強いて言えば、未来の自分にした。そして言い訳を一言プロフィールに入れた。「私的な文章を綴る非礼をお許しください」。

それでは、いったいなんで、その「生っぽくて、曖昧で、やわらかい自分の内面」を言葉にしたいのだろう。僕はいったい何のために書いているんだろう

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僕は何のために書いているのか。

去年一昨年と、いくつかの体験に身を浸して、確信したことがある。
それは、初めてお遍路をしたとき、航海に出たとき、歌舞伎を観たときに特に強く思ったことで、とてもシンプルな一つの真理だった。

今感じているこの感情、今しか出会うことができないかも。

(歌舞伎のときはこうも思った。「今感じていることは、もしかしたら江戸時代の人も感じたことかも。」江戸っ子への共感だ。ただこれは、本論から外れるのでここでは詳しく書かない。)

そしてその後すぐにこう思った。

やば。これ。この感じ。何かに書き残さないと失くなってしまうかも。

自分の中に生まれたみずみずしい感情や、純粋な驚きの痕跡が、まるで水面に石を落としてできた波紋が少しずつ消えていくように、薄くなっていっているのを感じた。そしてこれまでの人生で、その波紋にしっかり向き合って来なかった自分に気が付いた。

その波紋は、僕が気づかなければ、僕の他には誰にも気づくことのできないものだ。当たり前のことだ。僕という人間の中で生まれた一つの内的反応だから。僕が見つけなければ、そもそも最初から「存在しなかった」のと同じになってしまう、淡くて儚い感性の波紋

二十歳のころ、僕の中には何もないと思っていた。空っぽだと思っていた。そこそこ上手く生きられるけど、自分が何が好きかわからない。感性がない。中身がない。そんな自分が嫌で仕方なかった。
でもこの波紋を見つけて気が付いた。全然、そんなことなかった。ちゃんと中身は詰まっていた。存在していた。ただ目を向けていないだけだった。見てない間に、波紋が消えていただけだった。なんだ、あるじゃん、自分の中身。
「最初から存在しないこと」と「失われゆくこと」は違う。全然違う。そのまま目を向けなかったら、自分の感性に気づかずに生きてしまうところだった。危ない危ない。

と、その存在を認め安堵したあとに、ふとこう悟った。

でもこの感性は、今この瞬間も、少しずつ失われていっているみたいだ。

「失われていっている」
そう悟った時に、言葉にすると恥ずかしいが、僕は自分の感性を美しいと思った。そして愛おしいと思った。けっこうナルシスティックな気づきだけど。これまで続いてきた自分の感性の変容を悟り、これから直面するであろう、今の感性の喪失を予感した。

僕の感性は、今だからこそ何かを感じている。その感性は、今まさに失われていっている。そう思い、こう決意した。

自分の中に生まれ、消えていっている、感情と感性の波紋を、文章にしよう。

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ふと、大学時代に読んで以来もっとも美しい文章の一つだと思っているこの本のことを思い出した。「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。」という一節から始まる、淡くて美しい二十歳の女子大学生の日記だ。

思考も感性も文体も僕とはぜんぜん違うけど、こんな美しい文章を書きたいと思った。

今しか書けない文章を書いている。

新しい体験をして、何かを感じる。あっと驚く。失望する。涙が出る。憤る。もやもやする。どきどきする。
その後、何かを考える。これは何だろう。何でだろう。どうなっているんだろう。
そして、何かに気づく。ああこうなっているんだ。変だ。面白い。へえ。すごいなあ。かっこいい。何これ。不思議だ。
そうして世界との境界線に、自分の輪郭が立ち上がる。こういう自分がいるんだ。意外だ。なんでこういう自分になったんだろう。なんで、この自分以外にはならなかったんだろう。

そんな、自分と世界の接触によって生じた、感情のざわめきや、思考のゆらめきを、一つ一つ丁寧に、言葉にしていこうと考えた。誠実に、真摯に、愚直に。

そして、逆に、やらないことを3つ決めた。

・嘘をつかない。
・バズを狙わない。
・コンテンツにしない。

目的は、多くの人に読んでもらうこと、ではなく、今しか書けない文章を綴ること。自分の「今の感性」にできるだけ誠実に。わかりにくいかもしれないけれど、できる限りそのままの形で。できる限り色鮮やかに。それの邪魔になりそうなノイズはできるだけ排除する。

もいだオレンジをギュッと絞ったフレッシュなジュースのような。切り口にみずみずしい水分が滲み出てくるような切りたての檸檬のような。まるで感性がそのまま凝縮されて、水が滴りきらきら輝いているような。後から自分で読み返して、これどうやって書いたんだろうと思わずにいられないような。
そういう文章を書きたいと思った。

「何かを感じる」ということは、簡単なようでいて難しい。少し油断すると、何を感じていたかがわからなくなる。磨かないと何も感じなくなる。だから、いつも準備していなければならない。
「それを言葉にする」のはもっと難しい。感情と言葉は本来相容れないものだから。言葉の箱に、人の感情は到底収まりきらない。だから、いつも言葉の箱はできる限りやわらかく保っておかなければならない。

感じたことを書くことは、何かを捕まえることに似ている
例えるなら、風に乗って逃げていく蝶を追いかけるときのような。捕まえられたと思っても、手のひらには何も入っていないことがあったり。
あるいは、川の水の中でキラリと光るものに手を伸ばすときのような。持ち上げて見てみると、思っていたより綺麗じゃなくてグロテクスな鈍い色をしていたり。
感情を言葉で捕まえることは、かなりの気力と根気が必要な作業だ。

でも、それでも、僕は愚直に言葉を書き連ねる。たまに上手く感情を捕まえられたときの、美しさを知ってしまったから。それを書いた時の感性はもう既に失われてしまっているけど、でもだからこそ、文章に書き留めることで、その感性ともう一度出会い、新たな感性を手に入れることができると信じているから。

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老いと若さについて。

人によっては、生きていくうちに少しずつ感性は鈍くなっていくと言う人もいるだろう。感情も、気づきも、もしかしたら知性も。鈍くなっていくのは生物学的に不可避だと。それを「老い」と呼ぶのだ、「若さ」とは須らく失われていくものだと、真理のようにしたり顔で囁いてくるオトナもいるかもしれない。

でも、僕はそれにはまだ同意しない。「年齢を重ねること」と「若さを失うこと」は必ずしもリンクしないと思っているから。そして、「年齢を重ねること」は確かに「今の感性を失うこと」ではあるだろうが「感性そのものを失うこと」ではないはずだから。感性を失う原因は、いつだって自分の側にある。

「若さ」を失いたくないと「今」にしがみ付くのではなく、「今の感性」がまさに失われていっているプロセスの美しさを愛することができるならば。僕らの生は、老いによって感性を失いつづける「喪失の悲劇」から、体験を通じて新しい感性と出会いつづける「獲得の喜劇」に変わるはずだ。

その、逆転の呪文は、たぶんとてもシンプルだ。

・僕が今感じていることは、今しか感じることができないことだ。
・今だからこそ捕まえることができた感情だ。
・今が今になっていなかったら、その感情と出会うことはできなかった。
・その感情を誰かと共有できたなら、それは刹那と刹那が重なった素晴らしい偶然だ。
・・・

飛躍させて言えば、この呪文は、自分の感性を蘇らせる復活の呪文だ。日常とは、決して同じ毎日が繰り返されているのではなく、違う毎日がつねに新しく生成されているものなのだ。人間も、昨日の自分と今日の自分は、地続きでこそあるが、同一であることなど決してないのだ。この呪文は、そんな僕ら人間と、僕らが作り出す日常に、<一回性>という名の魔法をかけ、刹那的な美しさをもたらしてくれる。それは、僕らの現在を現在たらしめてきた過去と、その延長線上に描かれる未来、すべての人生に対する、最大の賛歌になるはずだ。

今しか感じられない感性を、今しか書けない文章で書いている。

読んでくれてありがとう。

おわり。

#Photo : Fujifilm X100F

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