24/9/30 📚京都のトリセツ&京都のツボ
京都のトリセツ
地形、交通網、歴史、産業というカテゴリーで、京都の初耳秘話を取り上げる。
京都のツボ
京都生まれ京都育ちの著者が、京都人にしか知り得ない視点から京都を語る。
先日の京都ひとり旅にあたり、事前調べに使ったのがこの2冊。この2冊のおかげで、京都に興味を持て、より楽しむことができた。
特に印象に残った内容をまとめる。
◎京都のトリセツ
①琵琶湖疏水の誕生秘話
1869年、明治天皇が京都から東京に行幸したことで、行政機関や皇室、貴族お使えの有力商人もごっそりと京都から出ていってしまった。人口が維新前と比べ35万人から20万人と減少した。
そこで、初代京都府知事の長谷信篤は、街の復興に向けて「京都策」という近代化政策を実施した。その第3期に行われたのが「三代事業」であり、第二琵琶湖疏水(第二疏水)建設、上水道整備、道路拡築をさす。作られた水路は今でも現役で稼働しており、滋賀県には毎年感謝金が贈られている。
②幻の巨椋池
かつて京都には、東京ドーム170個分の面積を誇る日本最大の池「巨椋池」があった。平安時代には藤原氏などの公家が別荘を建てるなど、古くから景勝地として知られていた。しかし、水害が多かったため、1906年に宇治川と完全に切り離されたところ、水の循環が失われ、水質が悪化し、マラリアが流行した。
そこで、1933年に国内初の国営干拓事業が始まり、干拓池となった。現在は田園地帯、住宅地となっている。
③日本初の一般用営業電車
1890年に東京・上野間で運転された電車が日本初だが、営業利用が実現したのは京都が初であった。これに至る経緯には、水力発電が関係している。
当時、人口減に対する復興政策として、琵琶湖疏水を利用した大型水車による産業振興が掲げられていたが、田邉朔郎がアメリカで世界初の水力発電を見学し、計画が変わった。京都にはすでに牛車用の線路が敷かれていたことから、水力発電で生み出した電気を使い、電車を走らせる計画ができた。
京都電気鉄道により運営されていたが、自動車社会により、地下鉄計画が立案され、廃止となった。
実は、二寧坂や産寧坂の石畳は、もともと京都市電の軌道敷石である。
④祇園は、新しい
祇園では古都の趣が感じられるが、実際には100年程度しか経っていない。繁華街となったのは江戸時代以降である。祇園で最も由緒あるとされる「一カ亭」の創業は江戸中期である。明治時代の後期の京都市三大事業にて道路が拡張され、今のような大通りとなった。
◎京都のツボ
①遠回し
直接的な表現を避け、それでも伝わらないなら嘘も方便
「息子はん、上手に楽器を弾かはるようになりましたな」は、うるさいということらしい。
このような遠回しの言い方は、狭い都にひしめき合うように暮らしてきた人々の工夫である。
②一尺
京都には今でも、長さを尺で、重さを貫で表す人がいる。
京都には門掃きの習慣があり、休みの期間に子供が家の前を掃除する。その際、「一尺だけ都内の家の前も掃いてあげる」ことがマナー。それ以上掃いたら嫌味、自分のところだけだと水臭い。この経験から、子供は一尺=30センチを肌で覚える。
京都人は冷たいと言われる事があるが、この深入りしすぎない、という教えが身についているともいえる。
③おもたせ の意味
言葉の意味が間違って広まることがあるが、「おもたせ」もその一つ。持参した手土産のことをおもたせ、というのではない。おもたせとは、手土産を受け取った側が、持参した人を敬う気持ちを込めて使う言葉である。
代わりに、自分が持っていくなら、「おみや」を使うとよい。おみやは、室町時代からの女房言葉で、京都の手土産を表すのにピッタリの言葉である。
メディアも間違った言葉の使い方をしていることがあるため、信じすぎてはいけない。