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イル・ポスティーノを観てきました

 イルポスティーノを観てきました。平日の昼間なのに結構多くの人が観に来ていて、30年も前の映画なのに、やはり、当時の印象が強かったのだろうなあ、なんて思っていました。

 この後はネタバレがあります。

 さて、感想ですが、何よりもこれまでの投稿で私の記憶をもとに強調していた「詩とは隠喩だ」というセリフがなかった、ということを報告させていただきます。恥ずかしかった。あれほど強調していたのに・・・。正確には結構序盤に、郵便配達人が詩人に、詩人の詩には意味の分からない言い回しが出てくるが、どういう意味だ、というようなことを質問し、それに対して詩人が「それは隠喩だ」と答えるシーンがある、ということでした。ですから、「詩とは隠喩だ」ではなく、「詩には隠喩が必要だ」というようなコンテクストだったというわけです。いやあ、記憶って本当に曖昧なものですね。最初の投稿には注を入れ、他の投稿は訂正しておきたいと思います。

 今回改めて観てみて、印象に残ったのは、郵便配達人の「この世界に存在するものはすべて隠喩なのか?」という問いだった。詩人は「明日まで考えさせてくれ」と言ったきり、最後までその問いへの答えは明らかにならないのだが。それでも「世界に存在する者はすべて隠喩」という言葉は、終盤の郵便配達夫が島の美しいものを詩人に伝えるために録音する、というシーンにつながっていく。波の音、風の音、星空、投網などを録音するシーンだ。以前観た時には自分の中ではつながらなかった。美しいものを録音するシーンは鮮烈に覚えていて、星空を録音する、というのはとても印象深かったのだが、今回は世界に存在するものはすべて隠喩、という言葉を聞いた瞬間にそのシーンが浮かんできて、涙が出てきた。中盤から泣いていたのだが、それがそのシーンになるとほぼ号泣だった。風景を録音する。美しいものは実際には見えない。波や風は音だけが聞こえる。星空に至っては音すらよく分からない。それは壮大な隠喩なのである。詩なのである。そう、ここではもはや詩は言葉ですらない。

 「言葉が人生に愛を運ぶ」と、今回のために作られたであろうこの映画のHPでは歌われている。確かに、無学の郵便配達夫が詩人と出会い、言葉の力に目覚め、その言葉の力によって愛した人と結ばれ、皮肉なことにそのことがきっかけとなって命を落とす。しかし、彼の言葉で書かれた最後の詩は残らなかった(回想シーンで風に舞うたぶん詩が書いてあったであろう紙が描かれている)。残ったのは島の美しい風景を録音し、友人だと信じている詩人へ送ろうとした、彼の声が残る作品のみ。これはいったいどのようなことなのだろう。いや、この場合どのような意味を持った隠喩なのだろう、と問うべきなのだろうか。

 最近亡くなられた谷川俊太郎さんの記事を検索していたところ、以下のような言葉に出会った。

「僕は書かれたもの以外も詩だと思っています。写真を撮るときも、これは詩だという気持ちで撮っている。写真も詩も、短い時間で世界を切りとるってところが似てるんじゃないかな。」(「谷川俊太郎 未来を生きる人たちへ」朝日新聞DIGITAL 2024年3月28日)

 このインタビューは本当に味わい深いもので、この言葉なんて全体のごくごく一部にしかすぎず、有料記事ではあるが、ぜひ多くの、言葉や、表現することや、それこそ詩に興味のある人に読んでほしいものなのだが、『イルポスティーノ』を再び観ることのできるタイミングで、このような言葉に出会えたことは、大げさなようだがある意味運命すら感じてしまった。

 「短い時間で世界を切りと」ったものが詩であるのならば、郵便配達人の風景を録音した作品は、間違いなく詩であろう。しかも、風景を音で切り取ったことによって、そして、そこに言葉でごく短い題名をつけたことによって、隠喩となった。さらに言ってしまえば、その作品が映画の中で示されることで、壮大なメタ構造を持つことになったのではないか。実際に登場人物のようにその風景を見たことがあるわけでもない、時代も空間も飛び越えた場所にいる一観客である私たちの心を、激しく動かす詩となったのである。

 最後の詩人の表情も、30年前に観たときには、郵便配達人が亡くなったことと、郵便配達人を演じたマッシモ・トロイージが亡くなったことが私の中では重なって、何とも言えない切ない表情をしているように感じたのだった。だが、今回観ていて気になったのは、あのシーンで詩人が思い浮かべている郵便配達人の最期の状況を、果たしてどのようにして詩人は知ったのだろうか、ということだった。郵便配達人の同志であり友人であった郵便局員が録音したものを聞いたのだろうか(回想シーンでは郵便配達人の晴れの舞台を録音するために機材を抱えている)、それとも、妻から聞いたのだろうか。どちらにしても、詩人はあのとき自分は実際には見ていないシーンを思い浮かべている、という設定だ。郵便配達人の晴れがましい顔を想像し、一瞬笑みすら浮かべている。そうすると詩人が思い浮かべたあのシーンも一編の詩と言えるのではないだろうか。

 あの戦後の混乱の時代、郵便配達人のように命を落とした者は数多くいた。ましてや第二次大戦の終結から10年ほどの時代だ。戦争では数多くの庶民の命が、紙切れのようにたやすく踏みにじられた。たくさんの、歴史には決して名前も残らない人物の一人だったはずの郵便配達人の死は、詩の力によって、背後にたくさんの名前を持たない貧しく善意の者たちであった死者たちをも引き連れて浮かび上がった。最後の詩人の表情は、かけがえのない友を失った寂しさ、連絡を取らなかった後悔だけではなく、郵便配達人の人生に思いを馳せ、一編の詩を思い浮かべている詩人の性を表現した表情だったのではないか。

 ハッピーエンド、とは言えないだろう。残されたベアトリーチェや子どもの今後の人生や、詩人を今後待ち受ける運命を考えても、明るい気持ちにはなれないし、やはり詩人がもっと早く来てくれたなら、とかなぜ郵便配達人が死ななければならなかったのか、と考えると、やりきれない気持ちにもなる。それでも、30年経ってもなお私の心の中に残り続け、今回もまた深く感動をさせる何か、がこの映画にはある。その何か、がなかなか言語化できない。安易に言葉にしたくない。考え続けたい。

 読んでくださりありがとうございます。ごまかしたような結論になってしまい、憤慨された方もいるかと思いますが、例えば「人生には絶対に必要ではないが、人生を豊かにしてくれるものがある」、というような結論ではあまりにも安易すぎるような気がしました。宿題として、もっと考えていきたいと思っています。また、この映画には原作があります。こちらも翻訳されているので、読んでみたいと思いました。

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