年末の習慣
†中沢新一『精霊の王』
いつの頃からか、年末は中沢新一の著作に親しむのが慣行となっている。年の暮れに暖かい部屋で、世間に訪れた束の間の終末的な雰囲気を浴びながら、氏のテクストが紡ぐような超世間的な宗教的思考に触れることが、ひとつの快楽になっている。
今年選んだ本は『精霊の王』。春先にちょうど講談社学術文庫に入っていて手に取りやすくなっていた。
『精霊の王』でも、中沢お得意の、古代から現代を貫く超歴史的な野生の思考の原風景を書くという仕事ぶりがよく発揮されている。この本ではそれを国家の誕生とともに忘れられた「宿神=シャグジ」というスピリットにそれを見ている。この精霊の歴史をいくらか辿っていくのがコンセプト。
そのシャグジの思考が、プラトンのコーラ概念からドゥルーズやレヴィ=ストロースなどをベースにした現代思想までを動員して証されているが、一歩間違えればただの超神秘思想に陥ってしまうラインをギリギリで行く筆致がスリリングでおもしろい。
中沢の関心はどの本も、人間の野生の思考、つまり宗教や神話的思考に残された、人間の想像力や超越論的思考の発生とリミットに向けられているといえるが、そういったあくまで瑣末なヒューマンの思考の基礎づけに限定する科学的手つきが、神秘思想への脱落を防いでいる。が、一方ではそれがマジシャンのように壮大なスケールで繰り出されるのがおかしい。
この本でも、シャグジという超自然的な力とその天皇の王権の正統性の説明への転用、という論点に触れることで現れているように、中沢の関心は人間の野生の思考のリミットと同時に、あるべき超歴史的な王権の思想とは何か、ということに最終的には向けられているのだとおもう。
こういった思考は常に現在の王権に対する批判を含み、オルタナ的王権の在りかたの提示と、それを基礎づける隠された史観、といった偽史的想像力のセットで成り立つものだから、アヤシイ領域に突っ込まざるを得ないのが宿命というものだ。ただ、それを読ませる筆致で、多少なりとも説得的に示しているのが中沢の仕事の評価されるべき点だ。
だからこの本は、中沢新一の政治哲学とそののマニフェストの一端を示すものだと言えるだろう。翻って、こうした発想を中沢の著作から遡及的に検証し、体系的にまとめることも面白い論点を含んでいるだろうし、必要なことではないだろうか。人類学と政治哲学のコンビネーション。「異端の時代」とまで呼ばれ、政治不信や主権の崩壊が見られているいま、王権や国家の射程を大きなスケールで見通し、それを基礎づける仕事が求められている。この本がその一助になることもあるのではないか、そうおもう。