谷崎のキツさ
必要があって谷崎の『痴人の愛』を読み返していた。
以前読んだときは、もういつ読んだかも思い出せないころなので、感想などはよく覚えていない。ただ、この小説の内容についてはよく入り込めないなあということだけは記憶している。
で、今回読み直してみて、明らかにキツいなと感じた。その内容以前に、語り手のジョージが繰り出すホモソーシャルとミソジニーの発露が、読んでいてはっきり不快だとおもったし、いまの基準からすると相当差別的だとおもう。それがキツさのほぼすべてを構成している。
語り手としては、小説を構成している手記を読者に投げ掛けることで、これはアイロニーであり、自身の行為については反省的ですよというメッセージを送っているつもりかもしれないが、それは差別のエクスキューズには当然ならない。そのポーズもこちらをげんなりさせる。
おまけに語り手が想定している読者像も、明治の堕落女学生ものを好む読者のごとく、ナオミが悪女としてふるまうことを期待しているかのようで、いや、そういうあり方の読者であることを語り手に強制させられるというか、その規定にも困惑させられる。
こんな小説が、よくも名作として文学史に登録され、読めたものだなとおもう。それは大正の時代の限界でもあるけれども、しかし、現代においてこれを読む読者も、この小説のミソジニーやホモソーシャルの差別的構造については分かっていますよ、それはさっ引いて読むことができますよ、というポーズをとることは、何か別種のワナに陥っているのではないか、ともおもう。それが何なのかまだうまく言えないが。