恋と否認(こじらせについて)①
タイトルについての雑記である。アトランダムに書く(ほんとうに所在なく書き散らします)。とりあえず、①ではユーリと太宰の話をします(節操ない)。
ユーリについて
まず、最近「ユーリ!!! on ICE」を見た。2016年の作品。今さら、かもしれないが、ここ数年ニチアサ以外はまともにアニメを見ていなかったので、なんとなくその間の時間を取り戻そうとしている、というのもある。
知らない人はそんなにいないとおもうのだが、ご存じ男子フィギュアスケートを題材にしたアニメである。とりあえず、恋愛のこととは関係なしに、名作らしいことは知っていたので食指が動いた……のだが、正直、未見であることを恥じた。それほど。作品についてはめんどうくさい性格なので、ふだんあまりストレートに評価するということはしないでいる。でも、これは掛け値なしに傑作だとおもった。
ちょっと言語化もしにくく、語るくらいならとにかく見ろ、という性格の作品なので詳しく作品評とかは記さない。でも愛が生まれる瞬間をはっきり捉えた、本当に歴史に残しておくべき作品だとおもう。私はロマンティックラブ至上主義者なのでどうしてもそっちの面が気になるので、こう恋愛面を強調して書くと食傷気味の方もいるかもしれないが、「短い選手生命のなかで競技に何を賭けるか」とか、「誰のために、何を背負って大会に臨むのか」とか、とにかくアツいテーマがあるので、多くの人がこれを見たらいい作品だと思ってもらえるんじゃないかなあとおもう。それくらいのものが詰まっている。というか、人間として生まれたからには一回この作品見とけ、そうおもった。そう言いたい。
作中の言葉を借りるなら、つきつめるとこの作品は二つのL、すなわちLOVEとLIFEについての話になっている。ふだん、生き方についてあれこれ考えている人でも、恋愛のことはちょっと、とおもう人も多いかもしれない。というか、大抵のオタクはそういうタイプなのではないかとおもう、たぶん。でもやっぱり人生と愛は切り離せないのではないか、そうおもって見てみるとまた違った景色も見えるかもしれない。作品を見るとそんなことも脳内に浮かんでくる。
ところで、タイトル通り、この作品の主人公の名前は勝生勇利といい(もう一人の主人公がユーリ・プリセツキーという)、ユーリの話である。やっぱりある種の系譜において、ユーリって一番特別な名前なんだなあとおもった。もちろんここで念頭においているのは萩尾望都『トーマの心臓』だが、もう一度同作を読み直したくなった。そのうち、改めて記事にするかもしれない。できたらいいなあ。たぶん。
否認について
専門が精神医学と医療人類学で、主にトラウマの研究に携わっている宮地尚子が『トラウマにふれる』(金剛出版、2020)でこんなことを書いている。
男性も性的虐待の被害にあう。けれども、その事実はなかなか受け止められない。社会のレベルで幾重もの否認や回避、解離の機制が働いているように、私には思われる。
たとえば、太宰治の『人間失格』には、「その頃、既に自分は、女中や下男から、哀しいことを教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行いうる犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています」(……)という文章がある。(……)問題は、太宰についての研究書は山のようにあるにもかかわらず、上記の文章に注目し、それが事実であるかもしれないと考えてみた者、その可能性を探ってみた者は、私の調べたかぎりでは皆無だということである。太宰のその後の人生の軌跡は、性的虐待が男児に及ぼす長期的影響の知見(……)と、かなりの程度一致する。そして太宰に対する社会の反応や評価は、男児への性的虐待に対する社会の一般的な反応とほぼ重なっている。(187-188頁)
「そんなことあるはずない」、仮にそれが事実だとして、「たいした傷ではない」というのが、男児性的虐待に対する社会の一般反応だと宮地はいう。太宰本人がどうだったのかはさておき、少なくとも作品のレベルで、性的暴力とその被害について詳述した研究というのは、確かにほとんどないと言ってよいとおもう。
「人間失格」では、主人公葉藏の妻であるヨシ子に対する性暴力被害のことは、従来述べられてきた。しかし、葉藏についての性暴力被害のことは、宮地の言うとおり閑却視されてきた。このことは太宰研究でもっと話題にされてしかるべきだとおもう。ヨシ子と葉藏の性と暴力についての経験がいかなるものなのか、主にジェンダーの面から比較して言えることはまだまだ多いようにおもう。
男性に対する性暴力の、自らにおける語りにくさというのは確かに存在する。暴力に対する被害はもちろんのことだが、つきつめて言えば男性の自らの性に対する否認が問題になっているのだと言えるだろう。
さて、『トラウマ=環状島の地政学』(みすず書房、2007)という別の本で、宮地はトラウマの経験を空間的なモデルにたとえ、それを環状島=中心が海に沈んでいる島として表現している。島の内海を上がると斜面があり、山がそびえている。周囲は外海に囲まれている。そんな環状島という島だ。
島の中心には内海=語ることのできないトラウマの経験が沈んでおり、そこから少し上がるとだんだん語れることができるような陸地の斜面がある。山の尾根に至ると他者に向けてもっとも語れるようになり、外の斜面では被害者をとりまく支援者が控えており、外海に至れば無関心者がいる。そんな社会の風景を模式化したものである。
宮地は、トラウマ=暴力の経験に対して、複合差別を例に出して、一人の人物でもそんな環状島は複数的に描けるものだという。たとえば、ひとつの性暴力に、被害者の民族に対する差別が隠れていたり、といった具合である。暴力の経験は一つではなく、複数のものが重なっているというわけである。そこでは、性暴力や差別については語れるようになる=尾根にいた被害者が、民族差別となると語れなくなる=内海に沈んでしまう、といった位置の変移もありうることになる。ひとつのトラウマに対しては語れるが、別のトラウマについては撤退してしまう、ということになる。
つまり、こういうことだ。トラウマ=こじらせ(本当にこう俗的に結んで語ってよいのかどうかは、また議論が必要だろう)の経験は複数生起する。それぞれの暴力的経験に対して、語りにくさがあり、経験からの撤退がある。
すると、では男の性暴力被害の経験には、どのような環状島が描けるのだろうか。その被害の周囲には、どのような複数の環状島=傷からの撤退や否認が存在しているのだろうか。私の興味はそこにある。
私は、太宰をはじめとした文学について研究している。だから、こうした男性の男性学的視野やその経験について関心がある。ご存じの通り、太宰はいちいち自分の傷を言語化し、アピールしたテクストを書きまくっていた。そこには「人間失格」のように、恋愛譚を含みながら、性暴力の経験を直截に描いた作品もある。恋と否認、こじらせと暴力。こういう経験に興味がわくわけだ。
宮地はトラウマという事象から、太宰の作品のある種の語りにくさに迫っているとおもう。それはもっと突き詰められてしかるべきではないか。太宰の「弱さ」については、これまで言語遂行的な視点から研究されてきた(たとえば、安藤宏『太宰治 弱さを演じるということ』ちくま新書、2002)。しかし、ジェンダーの視点から、もっと言えば性暴力の性的差異から考えることは少なかった。ならば、言語論的転回から、身体論的転回へ。そのようなことがもっと考えられてもよいのではないだろうか。