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私の本棚紹介vol.1 世界一素敵な学校

 ふだんとはちょっと異なる内容です。

 サドベリースクールeditにて私設図書館を開設することにしました♩
 「まちライブラリー」という取り組みに参加する形です。ご興味のある方は、活動内容のページにアクセスしてみてください。

 ”「本」を通じて「人」と出会うまちの図書館”というコンセプトです。
 それを見ただけで即決でした。自分で図書館を作れるなんて素敵です!
 小学生の頃から図書館や図書室の空間は好きでした。図書室の、学校の先生とはちょっと雰囲気が異なる図書館司書の先生とお話するのも、自然体でいられる癒しの時間でした。いまも、読書は生活の中で大切な自分時間です(なかなか思うように取れませんが…)。
 今後は様々な方が「自分の本棚」をサドベリースクールeditの中に設置できるようにしていく予定です。本を通じてたくさんの方とのご縁が出来るといいなと思います。

 「相手を知るには本棚から」(という言葉があるのかどうか分かりませんが)、私自身を知ってもらうためには良い方法かもしれないと思いまして、これまで出会ったなかで影響を受けた書籍や言葉をnoteに残していくシリーズ(続くのかな😅?)を始めていきます!
  小説、新書、絵本などなど、ジャンルを問わずご紹介していきます♩
  こちらのnoteでご紹介していく書籍は、サドベリースクールeditに設置した図書館に所蔵しています。ぜひ立ち寄っていただき、手に取って見てくださいね。

 では、第1弾です!

 一番手に選んだ理由は、4月から開校予定の「サドベリースクールedit」の生みの親とも言うべき書籍だからです。
 次の引用は、以前に書いた記事でも載せたものですが、もう一度。

人生のなかで意味をもってくる学習とは、甘言、または褒美、あるいは圧力のないところで、学び手が自分で選んだ対象のなかに自己を投企するとき、はじめて成立する種類のものと、わたしたちは考えたのです。

 そして、こうも確信しました。意欲と決心と一貫性のある生徒を得たとき、教師ははじめて比類なき達成感に浸ることができる、と。正直言ってわたしたちは、そういう環境ができれば、それは子どもたちにとっても教師にとっても、パラダイスになるに違いないと考えていたのです。

 そういう自分たち自身の考えに誠実であるために、わたしたちは「カリキュラム」、あるいは、「学校」が考案した「プログラム」なるものから離脱を図らねばなりませんでした。前へ進もうとする力はすべて、子どもたちから発せられたものでなければなりませんし、学校はただその意欲に応えるだけでいいのです。個々の子どもの諸活動の全責任は、その子どもとともにあるべきで、権威的なポジションにいる第三者とともにあるわけではないのです。
 ※太字は引用者によるもの。

ダニエル・グリーンバーグ著、大沼安史訳『世界一素敵な学校 サドベリー・バレー物語』

 こちらの本を購入したのは2024年6月です。当時の私は、高校専任教員を退職して非常勤講師として務めていました。2025年春から、不登校支援事業を始めていきたいという思いはあったものの、どういう理念で、どういう方法で運営していこうか、という具体像はありませんでした。

 一方、教員として長く務めてきたなかで抱いていた問題意識としては、
①多くの子どもが困っている。
 これは教員なら誰でも実感があるはずです。学習の進度(授業のペースや方法に対しての)、人間関係(友人や教員、家族との)、学校文化への適応、など内容も程度もさまざまです。「学校に行きたくない」という思いが過度な負担となり体調不良を引き起こす子どもも増えています。
 また、授業のために教室へいくと、眠そうにだるそうに教材を準備する生徒が存在します。授業は受けるけれども、基本姿勢が完全受け身というパターン。高校は(休むと単位が取れないから)行かなきゃいけない、授業は(余計なことすると怒られるから)静かに座ってなきゃいけない、テストは(評定や進路が関係するから)受けなきゃいけない、という実態です。

「人生のなかで意味をもってくる学習とは、甘言、または褒美、あるいは圧力のないところで、学び手が自分で選んだ対象のなかに自己を投企するとき、はじめて成立する」

この言葉にはっとさせられたのは、画一的な学習を一斉に行い、「確かな情報」を教員が子どもに伝達する、という学校教育の初期設定は、もう子ども達の理解を得られないのだろうな、と自分自身がそう思っていたからかもしれません。情報化が進み、世界中が繋がって、「正解や正義を定義できない時代」です。大人が教えなくても子ども達の方がそれを体感しながら生きていると思います。
 学校が打ち出す教育カリキュラムが唯一無二である!先生の言うことが正しいのである!と言えば言うほど子ども達は離れていく(困っていく)かもしれません。学校や教員が権威を振りかざすのではなくて、子ども達を納得させた上で(←個人的にこの点はかなり重要で有効なプロセスだと思う)物事を教えていく姿勢が大切だと感じています。

②先生もまた立ち止まる余裕もなく働いている。
 上記のように、子ども達の困っている様子は把握出来るのですが、学校の先生のお仕事は、メインの授業(前後の準備も含めて)、クラス担任(朝・帰HRだけでなく清掃指導や毎日毎月の出欠管理なども含めて)だけでもかなりの時間を要します。
 この上、クラス内の生徒で学校に来られない(登校が不安定な)子どもの困り感やその保護者の対応まで同時並行しているのが教員です。もっと丁寧に時間を取って対応したいという気持ちとは裏腹に、時間を捻出することが難しく先生方もそのジレンマに困っているのではないでしょうか。

③保護者の悩みや不安の受け皿はどこに?
 子どもが学校に来られない場合、多くの場合母親が学校との対応窓口になります。授業参観や三者面談もお母さんが参加する家庭が多いです。
(フルタイム共働きの家庭が増えている中で、学校に出向くのは依然として母親が多いというのは、何だかなあと思ってしまいます。)
 ともかく、「子どもが元気をなくして学校に行かないと言っている!」というのは、親からすれば非常に不安ですしショッキングなことです。年齢が低ければ家に残しておくことも出来ませんし、そうでなくとも本人の困難を解消するために仕事や予定をキャンセルして、子どもの気持ちに寄り添おうという考えになるかもしれません。「自分が多少無理をしてでも、子どもに無理をさせない」という事になるわけです。最初は何とかやりくり出来ても、いつまで続くのか、どうやって関わればいいのか、学校や先生にはどんなふうに相談しようか、等など新たな不安も随時生まれてきて悩みは尽きません。

 以上のような3点に集約されます。
 それぞれの問題が重要で、待ったなしのように感じられ、「既存の学校教育と支え合っていく学びの場」があったらいいんだろうなあ、と考えてはいました。一般的なフリースクールを思い描きながら、私が考える問題に対してさらに具体的な居場所の在り方はないだろうかと探しているなかで、この本に出会いました。

前へ進もうとする力はすべて、子どもたちから発せられたものでなければなりませんし、学校はただその意欲に応えるだけでいいのです。個々の子どもの諸活動の全責任は、その子どもとともにあるべきで、権威的なポジションにいる第三者とともにあるわけではない」

 これだ!と思えた瞬間でした。「サドベリースクール」を名乗ることに至った経緯はこの本との出会いが全てです。
 教育の機会均等を実現するためには、公教育の社会的な存在価値は大きいとはいえ、なじめない子どもが増え続けている、しかし先生は常に時間にゆとりがなく子どもや保護者に対して十分なケアが出来ないことが多々ある、ということを考えれば、多様な考え方や在り方を支えていく場所の重要性は困っている当事者や学校の双方にとって増していると思います。

 今回は、書籍の紹介に加えて、サドベリースクールedit誕生秘話についてもまとめてみました♩
 HPを公開していますので詳細などぜひご覧ください。→☆HP


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