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ビルケナウとヨシュア:ゲルハルト・リヒター ガザとエリコ

*以下は昨年の11月に別のブログに掲載したものですが、NOTEに転載します。最下層にガザ絡みの関連投稿のリンクを掲載します。

Joshua by Gerhard Richeter

今回のガザの包囲で真っ先に頭に浮かんだのがこの作品である。

2022年の「ビルケナウ」をメインにした東京でのリヒターの展覧会で、多くの「アブストラクト・ペインティング」とだけされた抽象絵画群の中に一つだけ名前のついた作品があったのだが、それがこの「ヨシュア」"Joshua"と名付けられた作品である。

展覧会中の抽象画群の中で、名付けられていた作品はこの「ヨシュア」と「ビルケナウ」だけであったために、本人が特に何かを語っているわけではないのだが、作品とその名付けに込められたメッセージは明らかであると思った。

「ビルケナウ」に関しては改めて項を設けることにしたいのだが、リヒターは作品の完成に際して、もうほかに思い残すことはない、といったたぐいの発言をしたと記憶している。何か責任を果たしたという感慨があったのであろう。

簡単に解説しておくと、ゾンダーコマンドが隠し撮りしたビルケナウ収容所内部の状況を伝えるたった4枚の現存写真、あれだけの虐殺の唯一の証拠写真、その4枚をフォト・ペインティングすることから始め、最終的にそれを塗りつぶすことで出来上がった作品群が「ビルケナウ」である。

下地のフォト・ペインティング=証拠写真=事件を隠蔽しようとすればするほど、その痕跡がまるで死体を塗り込めた壁に血が染み出してかさぶたを形成し続けるように、表出してくる。個人的な感想だが、そのようなイメージの作品が「ビルケナウ」であり、その前に立つとアウシュビッツでなされた行為の隠蔽の不可能性、謝罪の不可能性、総括の不可能性、表現の不可能性...といった感慨が、巨大な感情となって押し寄せてくるのである。

展覧会では「ビルケナウ」の展示に特別に大きな一室が設けられていたのだが、一方の「ヨシュア」は他の多くの作品と並列に扱われ展示されていた。

ヨシュアはご存知の通り、旧約聖書の登場人物でモーゼの後継者、「エリコの包囲戦」の指揮者である。エリコの壁で有名なこの包囲戦は壁の中の市民を一人の密通者を除き皆殺しにした民族浄化戦として旧約聖書の中に語られている。

「加害者が被害者に、被害者が加害者に容易に転化しうる」という事態。「ビルケナウ」と同時にこの作品を展示することで、少なくない鑑賞者が作者のメッセージとしてその事態を受け取ったのではないかと思うし、そう展示構成されていたとも思う。もちろん本人はそのような発言はしていないのだが...

多くのイスラエル人が今回の事態を「エリコの包囲戦」と重ね合わせているのではないか?ガザの包囲戦が始まったときに真っ先にそのように連想し、この作品を思い出した次第である。

つづく。


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